誰もわかってくれない
他人に理解されないことは苦しいことです。
人と人との繋がりが希薄になっている現代社会では、とりわけ「誰もわかってくれない」という思いを抱えている人が増えている気がします。
仏法を聞いていると、「誰もわかってくれない」という思いには二つの側面があることに気付きます。
一つは、「わかってくれる存在は確かにあるんだ」という気付き。もう一つは、「わかってくれない」という苦しみの根本的な原因は、自分自身にあることへの気付きです。
まずは、その一つ目から見ていきましょう。
☆PDFはこちら⇒No.191
カウンセリングルームから
『心はどこへ消えた?』
東畑開人 著(文藝春秋)より
「なんでわかってくれないの!」
完璧すぎる仮面の下にあった激しい怒りが露わになった。彼女はもう気持ちのいい人では全然なかった。黒髪は逆立ち、口汚い言葉があふれた。
だけど、それこそが重要なことだった。
臨床心理士の東畑開人さんのカウンセリングルームには、実にさまざまな人が訪れます。
うつ症状を抱える人だけでなく、社会的に成功している人、家族に囲まれて幸せそうに見える人、一見カウンセリングとは無縁に思える人たちも、様々な心の問題を抱えてやってきます。そしてしばしば発せられるのが、冒頭のような「誰も私のことをわかってくれない」という訴えだそうです。
「たった一人の物語」を共有する
実はこうした訴えは、誰もが根本的に抱えている思いではないでしょうか?
『大無量寿経』には、「人、世間の愛欲の中にありて、ひとり生まれ、ひとり死し、ひとり去り、ひとり来たる。身みずからこれを受け、代わる者あることなし」という一節があります。
「誰もわかってくれない」思いを抱えながら、たった一人歩まねばならないのが人生ではないでしょうか?
別の男性;「イライラマン」とのカウンセリングを覗いてみましょう。
カウンセリングでは、私小説が語られる。身辺のことやその時のご本人の気持ちが、断片的に語られ続ける。…
学生時代に孤立していたところを彼女に救われたことが語られ、その彼女と痛ましい別れ方をしたことが語られる。幼い頃に母が出奔し、そのことを口にしてはいけないと感じていたことが語られる。
筋が太くなってくる。「誰もわかってくれない」と思って生きてきたイライラマンの物語が見えてくるのだ。
その時、私たちはイライラマンを外から観察しているのではない。イライラマンの世界を内側から一緒に見ている。彼の生きてきた「わかってくれない」物語を共に体験しているのだ。
それがイライラマンを変える。ここが現代にあって見失われやすいところだ。
自分でも気が付いていなかった物語が分かち合われることは、別の物語を新しく始める力になる。…
時間を掛けて紡がれた物語…それは心を変化させる力があるのである。
一人一人に寄り添う阿弥陀如来
以下は、親鸞聖人の言葉です。
阿弥陀如来が計り知れないほど長い時間をかけ、苦労に苦労を重ねて立ててくださった本願は、ひとえにこの親鸞一人のための願いであった。
思えば私は自分でも気付かぬうちに、重い重い罪を作ってきたし今も作り続けている。にもかかわらず、私を救おうと思い立ってくださった阿弥陀如来の本願の、なんと有り難いことか。
(『歎異抄 後序』より 住職意訳)
困難に満ちた聖人の人生を支え続けたのは、「誰もわかってくれなくても、阿弥陀さまだけは共に体験してくださっている。私だけの物語を分かち合ってくださる。」という思いではなかったでしょうか。
そして後世の私たちのために、「阿弥陀如来は今も一人一人に寄り添ってくださっています」というお念仏の教えを、聖人は遺されたのです。
出典
東畑開人『心はどこへ消えた?』(文藝春秋)をクリック
あとがき
冒頭に掲げた「仏法を聞く者の二つの気付き」のうち、一つは「阿弥陀如来だけはわかってくれる」という気付きでした。では、もう一つの気付きとは何でしょうか?
それは「苦しみの原因を作っているのは他ならぬ私自身であった」という気付きです。
お釈迦様は、「人生の一切は苦である(一切皆苦)」とおっしゃいました。ここでいう「苦」とは本来、「思うままにならない」という意味です。
しかし、老い・病み・死ぬといったことは一つも私の思い通りにはならないのに、それを「老いたくない」「病みたくない」「死にたくない」と考え・もがく(思うままにしようと“はからう”)私の心が、「苦」を「苦しみ」にしている、というのがお釈迦様がおっしゃっていることです。
この「思うままにしよう」とする心を、仏教では「煩悩(ぼんのう)」と言います。
つまり、「誰もわかってくれない」という思いが起こるのは、「わかってもらえないことが当然なのに、それをわからせようと考え・もがく」こと(私の煩悩)に原因があるというのが、もう一つの気付きです。
本来は阿弥陀如来へのおまかせ一つで良いものを、私の“はからう”心が迷いを生んでいくことを知らされます。阿弥陀如来の信心をいただくということは、こうした気付きをいただくということでもあるのです。
解説;もうちょっと知りたい(お経のこと)
~参照先~
自然法爾
これまで何度も、「阿弥陀如来は、いつも寄り添ってくださる」「阿弥陀如来は、そのままのあなたを救う」というフレーズを使ってきました。しかしときどき、“なにかぼんやりしてイメージが湧きにくい”と言われることがあります。
そもそも、なぜ阿弥陀如来は私たちを救おうとされるのでしょうか?
阿弥陀如来とは、「完全な覚り」を得た仏です。
こうした仏の定義を、七高僧の一人・善導大師は次のようにおっしゃっています。
<『浄土真宗聖典・七祖編 p301>
「自覚・覚他・覚行窮満、これを名づけて仏となす。」
『観経疏 玄義分』
自らの覚りを得、他者を覚りに導く。この二つが完全に満たされた者こそが仏である。
そもそも「仏・如来」というからには、他の者を救いとげるはたらきが自ずから備わっているというのです。逆にいえば、他の者を救いとげることができない者を「仏・如来」とは呼ばない、ということです。
阿弥陀如来があらゆる者を救わんとはたらくこと(本願力)に疑いの余地はない、ということを、親鸞聖人は「自然法爾(じねんほうに)」ということばを用いて表現されています。難解な文章ですが、少し意訳も入れて現代文にしてみました。
<『浄土真宗聖典』p768>
自然法爾のこと
(『親鸞聖人御消息』86歳のお手紙)
自然ということばは、「自」は「おのずから」という意味です。行者(人間)の“はからい”によるものではない、ということです。「然」というのは、(如来が)「そのようにさせる」ということばです。
「そのようにさせる」とは、行者の“はからい”によるのではなく、如来が本願にお誓いくださっている通りになさる(あらゆる者が救われていく)、ということですから「法爾」というのです。
法爾ということばは、如来が本願にお誓いくださっているからこそあらゆる者が救われていくのだ、ということを「法爾」と表現しているのです。この法爾とは如来が立ててくださった本願のことですから、行者の“はからい”がまったく入らないままに、如来の徳によって救われていくことです。 <中略>
如来の本願は、はじめから行者(人間)の“はからい”はあてにせず、ただ「南無阿弥陀仏」と帰依させて、浄土という最上の覚りの世界に迎えて救おうと誓ってくださったものです。
だから、行者(人間)が自らの善行や悪行にとらわれることなく、如来の本願によって救われていくことを自然というのだ、と聞かせていただきます。如来の本願は、行者(人間)をこの上ない覚りを得た仏にすることで救ってくださるのです。
ちょっと難しい表現ですが、じっくり味わってみてください。
いかに、私たち自身の“はからい”が邪魔をしているのか。もっといえば、救いの妨げになるのは、自分自身の“はからおう”とする心だけであることを言い当てた文章です。
参照「二種深信」⇒👉No.185の解説を見る
用語一覧を見る ⇒ ここをクリック