❝たましい❞の往く末
最近、藤井風さんの曲をよく聞いています。
メロディーが美しいのと、何よりも歌詞が宗教的(仏教的?)で惹きこまれてしまうのです。まだ25歳で、どうしてこんな曲が作れるのだろう、歌えるのだろうと感心しながら、一緒に口ずさんでいます。
「帰ろう」という曲もその一つで、私たちの命がいずれどこに還っていくのか、それまでどう歩んでいくのかを考えさせられる内容です。
今月は、私たちの・そして先に見送った大切な方々の「たましいの往く末」について書いてみました。(藤井風さんは出てきませんが…)
☆PDFはこちら⇒No.194
先立たれた者の後悔
『臨床仏教学のすすめ』大村英昭 著(世界思想社)より
坊やのお父さんはくり返し言われました。「こんなことなら、自分がもっと遊んでやればよかったのに…」と。「三年保育のはじめの頃なんて、柱にしがみついて嫌がっとるのに、無理矢理スクールバスに乗せたりしたんですよねェ…。保育園に行っとるわずかの時間も、今から思えば ともにしてやれなかったのが悔まれます。」
そうなんですね。先立たれてみると誰しも、「ああもしてやりたかった、こうもして あげたかった」の想いがこみあげてきますよね。筆者とて同じ。早くに逝った父を想うにつけ、当時の自分の無力と、かえって逝く人のほうが遺る者たちに“済まん、済まん” と言い続けられた姿を思い浮かべるのです。
身近な方を見送るのはつらい体験です。それが大切な方であるほど、生きている間にしてあげられなかったことへの後悔の念が押し寄せてきます。
そんな時は、亡き方の「たましい」の行く末を真剣に考えてみることが大切であると、大村英昭師(元筑紫女学園大学学長)は言われます。
(仏教では、不変なる実体としての「魂」は否定します。しかしここでは、「亡き方のたましい」=「遺された者にとっての、亡き方のかけがえのなさ」として語られています。)
亡き方はどこへ往くのか
亡き方はいったいどこへいったのか、いつか再び会うことはできるのか…?
手がかりとなるのは、宗祖をはじめとする先達のことばです。
親鸞聖人の
かならず ひとつところへまゐりあふべく候
(必ず“浄土”という一つところに、私たちもまた、参ることでしょう)
<親鸞聖人御消息>
という言葉が、響いてきます。
『臨床仏教学のすすめ』大村英昭 著 より
かけがえのない人の「たましゐ」の往く末を、“あい済まん”の気持ちで案じたことのない人たちには、なるほど「お浄土」なんて、ただの絵空事。どう説明したところで弱き者らの幻影に過ぎないということになるのでしょう。…
亡き人に対して“あい済まん”の思いを募らせるほどに、…特にいつ頃からとは申しませんが、かけがえのない人の「たましゐ」の行く末を本当の意味で案じる限り、僕自身もまたそこへ往くしかない“そこ”のところがほのかにわかるようになりました。
「あい済まん」の先に見えてくる世界
亡き親を、亡き子を、亡きつれあいを想うとき、「浄土に往きたい」ではなく、「私も同じところに往くしかない」といただく。そのような人々の想いが積み重なって、お念仏は受け継がれてきたのではないか、と思います。
大きな悲しみの中にも、心の落ち着き先があるのがお念仏の救いです。
出典
『臨床仏教学のすすめ』大村英昭 著(世界思想社)をクリック
ちょっとだけ あとがき
再び、藤井風さんの曲「帰ろう」について。
歌詞の最後は、「あぁ今日からどう生きてこう」ということばで終わります。
大切な人や自分自身の「いのち(たましい)」の還る先を真剣に考えていくことは、「死を考える」ことなのではなく、「今をどう生きていくか」を考えることなのではないか、とも思います。
解説;もうちょっと知りたい(お経のこと)
~参照先~
往生即成仏
お念仏の救いにおいては、今生の命終えたその瞬間に、仏のさとりをいただくことができる(浄土へ往生することができる)と言われます。このことは「往生即成仏(おうじょうそくじょうぶつ)」と言い表されてきました。
よく「四十九日の法事までは仏にならない」などと言われますが、浄土真宗では「往生即成仏」=すぐに仏さまです。阿弥陀如来と同じお覚りを、即時にいただくのです。
参照「浄土」⇒👉No.021の解説を見る
そのため、浄土真宗では「御霊前」の表記は用いません。さとりの「仏さま」しかいないからです。お通夜であっても、お葬儀であっても「御仏前」で大丈夫なのです。
親鸞聖人は「往生即成仏」のことを、
念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。<『浄土真宗聖典』 p264>
(念仏をいただいた者は、阿弥陀如来の他力の信心を得ているから、この世の命を終えて浄土に生まれ、たちまちに完全なさとりを開くのである。)
『教行信証』信巻・真仏弟子釈
と書かれています。
これは聖人が勝手に言われているわけではありません。お釈迦さまの説かれた経、それを先達たちが解釈された書物をいくつも提示しながら、それらを根拠に言い切っておられるのです。
親鸞聖人が挙げた根拠となる文言の一つに、お釈迦さまが次のように述べられているところがあります。(『教行信証』信巻・横超断四流釈)
<『浄土真宗聖典』 p255>
必ず、この生死(迷い)の流れを超え離れて浄土に往生し、ただちに輪廻を断ち切って、迷いの世界に戻ることなく、この上ないさとりを開くことができる。
浄土は往生しやすいにもかかわらず、往く人がまれである。しかしその国は、間違いなく本願のはたらきのままに、すべての人々を受け入れてくださるのである。
『無量寿経』下巻 <『浄土真宗聖典』 p54>
浄土に往生し、ただちにさとりをいただくのは、阿弥陀如来の「本願のはたらきのまま」であるからだ、というのです。
衆生(私たち)をさとりに至らせることこそが阿弥陀如来の願いであり、本願はそのために建てられたものでした。そのはたらきのままに、私たちは仏のさとりをいただいていける、というのがお念仏の救いです。
参照「他力本願」⇒👉No.176の解説を見る
ここでもう一つ取り上げたいのは、「浄土は往生しやすいにもかかわらず、往く人がまれである」という一節です。往きやすいのに、往く人がまれであるとはどういうことでしょうか?
親鸞聖人はこのことを、七高僧の一人・善導大師のことばからうかがっています。(『教行信証』信巻・真仏弟子釈)
<『浄土真宗聖典』 p260>
ただ嘆かわしいことは、衆生(私たち)が疑ってはならないことを疑うことである。
浄土は私たちの前にあって何ものも拒むことなく受け入れてくださる。阿弥陀仏がお救いくださるかどうかを論じる必要はない。ただ私たちが、ひとすじに浄土に往生しようと願うかどうかによるのである。…
これからさとりを開くまで(この世の命終えるまで)、長く仏の徳をたたえて(お念仏して)、大いなる慈悲の恩に報いていこう。阿弥陀仏の本願のはたらきを受けることができなかったなら、はたしていつ迷いの世界を出ることができようか。
善導大師『般舟讃』 <『浄土真宗聖典・七祖編』 p733>
( )内は住職意訳
お念仏一つを心に、余計なものは手放しながら、安心して阿弥陀仏の救いにおまかせしてみましょう。そして、皆でお浄土に還らせていただきましょう。
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