お念仏申す意味
「南無阿弥陀仏」のお念仏は、阿弥陀如来が私たちを救い遂げ、浄土に往生させるために選び取られた「行」です。
ですから、私たちがお念仏申す理由は「阿弥陀如来が私たちに、お念仏申して生きていくことを願っておられる」からです。
ただ、お念仏にはもう一つの側面があります。
今月は、その「もう一つの側面」について書こうと思います。
☆PDFはこちら⇒No.193
親鸞聖人のお手紙より
早速、お念仏申す意味について考えてみたいと思います。
ヒントは、親鸞聖人が80歳の頃、お弟子さんに宛てて書かれた手紙の一節です。
親鸞聖人御消息(第25通)より
自分が浄土に往生できるかどうか不安な人は、まず自らの浄土往生についてよくお聞きになり、お念仏申すのがよいでしょう。
自らの往生は間違いないと思う人は、仏のご恩を思って 感謝の心でお念仏申し、世の中が安穏であるようにと、仏法が広まるようにと思われるのがよいでしょう。
<住職意訳>
まずは、「自分自身が阿弥陀仏に救われ、浄土往生する身であること」を聞き、「阿弥陀仏はただ一つ、私にお念仏申しながら人生を歩んでほしいと願っていること」を聞くのが大切だと言われています。
では、次の「世の中が安穏であるようにと思ってお念仏する」とは、どういう意味でしょうか?
注意したいのは、お念仏が「世の中を安らかにするための呪文や願掛けではない」ということです。
阿弥陀如来の願い(第17願)
ちょっと難しいですが、『仏説無量寿経』というお経に書かれた阿弥陀仏の48個の誓願のなかから、第17願を見てみましょう。
設我得仏 十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚
――私(阿弥陀仏)が真の覚りを開いたなら、十方世界のあらゆる仏がたが、こぞって私の名 (南無阿弥陀仏)を褒めたたえ、称えるように致します。――
阿弥陀仏の本願(第18願)は、この17願の直後にあり、「必ずあなたを仏にして救う。あなたを決して一人ぼっちにはしない。」という誓いです。この誓いが「南無阿弥陀仏」という呼び声となって私に届いたのが、お念仏なのです。
阿弥陀仏の名前であり、呼び声でもある「南無阿弥陀仏」を褒めたたえ、その声を十方世界に響かせようというのが、第17願の本意です。
お念仏が響きわたる世界
さて、私たちがお念仏申す時、「南無阿弥陀仏」の声は他の人の耳にも届きます。私たち一人一人は煩悩にまみれた凡夫に過ぎませんが、口から出た「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏を褒めたたえる声となって響きます。
すなわち、第17願のお心にかなう声となるのです。
ですからお念仏申すことには、私自身のためだけでなく、周囲の人々にも阿弥陀仏の救いが届いていることを伝える役割があるのです。
孤独な人には「決して一人にしないよ」と伝わり、死後の心配をしている人には「必ず阿弥陀仏が浄土へ導いてくださるよ」と伝わっていく…。
その輪が広がった社会は、自分を大切にするだけでなく、お互いのことを思いやり・尊重しあう社会ではないかと思います。
それを親鸞聖人は、「世のなか安穏なれ」と表現してくださったのでした。
解説;もうちょっと知りたい(お経のこと)
~参照先~
五願開示
今回は、阿弥陀如来の第17願をとりあげました。
参照「諸仏称名の願」⇒👉No.187の解説を見る(あとがきから)
浄土真宗・お念仏のみ教えは、阿弥陀如来の本願が出発点となっています。
本願とは、『大無量寿経』に示された48の願いのうち、第18番目の願を指します。
<『浄土真宗聖典』 p18>
説我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法
(わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。)
参照「他力本願」⇒👉No.176の解説を見る
参照「唯除の文」⇒👉No.177の解説を見る
この本願こそが、私たちを救う大本の願いなのですが、では他の47願に意味はないのかというと、そんなことはありません。
親鸞聖人は特に第11願、12願、13願、17願を重要視され、いずれも、第18願の内容を別の形で顕してくださっているものとして捉えました。これらに本願(18願)を加えて、「真実五願」と呼びます。
聖人の主著『教行信証』では、「教」・「行」・「信」・「証」・「真仏土」・「化身土」の六巻に対し、「行巻」の標挙(ひょうこ;巻の冒頭にその内容を顕す願文が示される)には、「諸仏称名(しょぶつしょうみょう)の願」として第17願を挙げ、「信巻」の標挙には「至心信楽(ししんしんぎょう)の願」として第18願、「証巻」の標挙には「必至滅度(ひっしめつど)の願」として第11願、「真仏土巻」の標挙には「光明無量(こうみょうむりょう)の願」として第12願、「寿命無量(じゅみょうむりょう)の願」として第13願を挙げています。
『教行信証』は如来の本願(第18願)のお救いを詳しく述べられた書物ですから、この五つの願が第18願を開いて示してくださるとして、「五願開示」と呼ばれたりもします。
長くなりますが、それぞれ何が述べられているのか見て行きましょう。
第11願(必至滅度の願)
<『浄土真宗聖典』 p17>
説我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚
(わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が正定聚に入り、必ずさとりを得ることがないようなら、わたしは決してさとりを開きません。)
参照「現生十益」⇒👉No.186の解説を見る
第12願(光明無量の願)
<『浄土真宗聖典』 p17>
説我得仏 光明有能限量 下至不照 百千億那由他諸仏国者 不取正覚
(わたしが仏になるとき、光明に限りがあって、数限りない仏がたの国々を照らさないようなら、わたしは決してさとりを開きません。)
参照「無礙光如来」⇒👉No.016の解説を見る
第13願(寿命無量の願)
<『浄土真宗聖典』 p17>
説我得仏 寿命有能限量 下至百千億那由他劫者 不取正覚
(わたしが仏になるとき、寿命に限りがあって、はかり知れない遠い未来にでも尽きることがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません。)
第17願(諸仏称名の願)
<『浄土真宗聖典』 p18>
説我得仏 十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚
(わたしが仏になるとき、すべての世界に数限りない仏がたが、みなわたしの名をほめたたえないようなら、わたしは決してさとりを開きません。)
一見すると沢山の願が出てきて、さらにそれぞれに参照するものがあり、とてもややこしいと感じられるかもしれません。しかしそれぞれが複雑に絡み合いながら、ただ一つのメッセージ・「阿弥陀如来があらゆるものを救いとるはたらき」を、私たちに伝えてくださっています。
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