大切な者の名を呼びあう

 

現在、真光寺の住職を務めさせていただいている私こと近藤大は、お寺の生まれではありません。三十代なかばまでサラリーマンをしていましたが、妻が真光寺の跡取り娘だったため、脱サラして入寺することになりました。

 

仏教の教えや仏事について何もわからないところからスタートして、たくさんの恥をかき、右往左往しながらやってきました。

ホームページを立ち上げたのも、「知らない」ことが理由で仏教から足が遠のく方の気持ちがよくわかるからです。

一方で仏教・浄土真宗の教えを知れば知るほど、多くの方が「知らない」ままになっていることを「もったいない」、と考えるようになってきました

 

私が住職を継いだ平成25年(2013)は、前住職(妻の父)が亡くなった年でもあります。何もわからない私を快く迎え入れ、信頼してお寺の運営を任せてくれた義父でした。

前住職を見送った翌月、葬儀でのご挨拶をそのままご紹介させていただいた「ことば」です。

 

☆PDFはこちら ⇒ No.80

 

真光寺第14世住職(林隆惠) 門信徒葬  喪主挨拶

 

今年、年明けより食べ物が喉を通らなくなり、点滴を中心とした療養を続けて参りましたが、多発性の脳梗塞も患い、最後は肺炎にて娑婆の縁尽きることとなりました。

三月二日の朝8時36分、子や孫に見守られながらの穏やかな最期でした。

 

 私がグループホームに子供たちを連れて到着したのは、8時30分過ぎでした。
「たった今、呼吸が止まりました」とスタッフの方に言われ、部屋へと入りました。その時、 誰からともなく「お父さん、お父さん」「おじいちゃん、おじいちゃん」と呼びかける声が起こりました。「お父さん…」「おじいちゃん…」 何度も何度も呼 びかけていると、 呼吸が止まったはずの父が、私たちの声に応えるように「はーっ」と、もう一度だけ大きな息をしたのです。
 

名前を呼びあうことの あたたかさ

 

ここで父の臨終の様子を細かくお話しするのは、臨終に「間に合う・間に合わない」という話がしたいからではありません。最期の父の姿が教えてくれた のは、大切な者の名前を呼びあうことのあたたかさ、そして尊さでありました。

 

私には父の最期の一息が、「お父さん」「おじいちゃん」と呼ぶ家族の声に、精一 杯「おうっ」と応えてくれたように見えました。泣きながら呼び続ける声に、「ここにおるぞ、ここにおるぞ」と命がけで応える父。その名を呼べば必ず応えてくれる方がいることが、これほどありがたいことか、これほどあたたかいことかと、その身をもって示してくれました。

 

 

父の人生は、五十年の住職生活を通じて、「ナマンダブ ナマンダブ」と阿弥陀さまの名を呼び続ける歩みでありました。

父が称える「ナマンダブ」の先にはいつも、 先にお浄土にお送りした大切な方々がいたのではないかと思います。お父さんやお母さん、若くして戦死したお兄さん、わずか十歳で亡くした最愛の息子、そして長年連れ添った前坊守が、「おうい、はあい」といつでもお浄土から応えてくれる、その声を聴きながらのあたたかい、そして御恩報謝の歩みであったと思います。

 

苦労の多い人生ではありましたが、父のお念仏の声は跡を継いだ住職の私はもちろん、ここにおられる一人一人のご門徒様方のその口にこの口に、受け継がれております。

どうぞこの門信徒葬を機縁として、お念仏相続に、よりいっそう励まれますことを願いまして、はなはだ楚辞ではございますがご挨拶とさせていただきます。

 

 

 

感謝の思いは お念仏で

 

長年、真光寺を守り続けてくれた前住職に「お疲れさまでした」の思いを、そして父を支え続けてくださった皆さまに感謝の思いをこめて、お念仏申させていただきます。

 

 

あとがき;「臨終」とは何か?

 

「臨終に間に合ってよかった」、逆に「臨終に間に合ってあげられなかった」とおっしゃる方がおられます。確かに、大切な人が息を引き取る瞬間に立ち会えることは、"幸運"なことではあります。

しかし、それだけを重要視することには問題があると思います。

 

私は「臨終」とは、「命終えていかれる人と過ごす大切な時間」のことであると考えています。

  参照  ⇒👉「葬儀について」

 

急な事故などは別にして、病気や老衰で大切な人が命を終えていかれるまでに、実は別れを惜しむ時間・語り合う時間は結構あるのではないでしょうか?

もし語り合うことができない状態でも、手を握る・笑顔を見せることで、感謝の思いを伝えることはできます。たとえ会うことができなくても、お念仏を通じて「大切な者の名前を呼びあう」ことができます。

 

しかし、"元気になる"ことにしか価値を置いていない人は、自然と死について考えることを遠ざけてしまいます。

「いつか元気になったら…」そうやって大切なことを伝えあわないまま、「息を引き取る瞬間に間に合うか/間に合わないか」だけに重きが置かれてしまうことになるでしょう。

また、死の瞬間だけをクローズアップし過ぎると、「眠るように亡くなった」から"良い"、「苦しそうだった」から"だめ"といったことが重要視されることにもなりかねません。

 

仏教は、「私もあなたも、いつかは命終えていく身だ」「死に方はわからない、しかし死ぬことだけは確かである」「それは数十年後かもしれないし、今日かもしれない」という、厳しい事実を私たちに教えてくれます。

大切な人と今日一日をどう過ごすのか、大切な人を思い浮かべながら今日一日をどう過ごすのか…。

 

「臨終」は今、この時から始まっているのかもしれません。

 

 

解説;もうちょっと知りたい(お経のこと)

 

南無阿弥陀仏;「呼んでいる」のに「呼ばれている」

 

「呼びあう」ということの意味をもう少し詳しく解説したいと思います。

 

皆さんの中で、母親のことを「お母さん」と呼び始めたのが何時か・何故か覚えている方はいるでしょうか? おそらく、いつの間にか・理由もわからず呼び始めた方がほとんどだと思います。

 

実はそれは、ことばもわからない私に向かって母親の方から「私がお母さんよ」と、何度も何度も呼び続けてくれたからです。

その呼び声は「命に代えてもあなたを守ります、あなたを育てます」という母親の誓い・願いが込められた声でもあります。

 

母親の呼び声を聞き、心から安心した私たちの口から初めて「お母さん」という呼び名が出てくるのです。

私たちが「お母さん」と呼び、母親が「はあい」と応える。そのやり取りの元には、はかることのできない大きな愛情に満ちた母親の呼び声があったのでした。

 

 

「南無阿弥陀仏」も同じことです。

私たちが「南無阿弥陀仏」とお念仏することは、阿弥陀さまのお名前を呼んでいることに他なりません。しかしそれは、「われにまかせよ、必ず救う」という阿弥陀さまからのよび声が先にあったからです。

仏さまのことばが何一つわからない私たちを、阿弥陀さまの方から何度も何度も繰り返し呼び続けてくださったからこそ、私たちの口から初めてお念仏が出たのです。

 

私たちが「南無阿弥陀仏」とお念仏申し、阿弥陀さまがそして亡き方々が「南無阿弥陀仏」と応える。その元には、はかることのできない大きな智慧と慈悲に満ちた阿弥陀さまの呼び声があったのでした。

 

親鸞聖人はそのことを指して、「本願招喚の勅命」と示してくださっています。

<『浄土真宗聖典』p170>

 

 参照 「南無阿弥陀仏」⇒👉No.164 の「解説」を見る

 

 

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