「助けられる」弱い私
「自己責任」ということばが一般的に使われるようになってから、もう二十年くらいは経つでしょうか?
経済的に困窮するのも「自己責任」、コロナにかかるのも「自己責任」…。そこには、今いる場所(豊かさや健康)が「当たり前である」という意識が見え隠れします。
諸行無常・諸法無我。
仏教では、私がいつ「助ける」側になり、いつ「助けられる」側にまわるかが “わからない”ことを教えてくださいます。もし今「助ける」側にいたとしても、それは数限りないご縁のなかで、“たまたま”そうなっているだけなのです。
ことばは、人々の意識まで変えていきます。
「自己責任」ということばが使われるたび、「助けて」ということばが言いづらい世の中になってきたような気がします。そしてそれが二十年続いたということは、自己責任論の世の中しか知らない世代が、成人を迎えるということでもあります。
昨年来のコロナ禍にかかわる新聞記事で、「助ける・助けられる」ことについて考えさせられる「ことば」を見つけました。
☆PDFはこちら⇒ No.165
コロナ禍での気づき
この度のコロナウイルス感染拡大の状況を受け、ある大学教授が新聞に寄稿した文章をご紹介します。
若松英輔 氏(東京工業大学教授)
2020年4月30日付 朝日新聞への寄稿 より
二年前、大学の教員になった。学生と対話するなかで強く感じたのは、世にいう自己責任論の強さだった。それは無意識のレベルにまで浸透している。いかに「強く」あるかは分かっていても、自己と他者の「弱さ」の認識が難しいのである。
たとえば、科学は世の中にどう貢献できるか、というテーマで論議が始まる。 話し合いは 活発に行われるのだが、その視座はほとんど「助ける」側にあって、「助けられる」側にはなかなかいかない。
もちろん、学生を責めることはできない。学生たちが進んでそうしたのではない。いつも誰かと競争し、他者に抜きん出ろという社会の求めに応じた結果なのである。
「弱い」立場に立ってみなければ「弱い人」は見えてこない。
まず「弱い私」に気づく
いま、社会全体を大きな不安が覆っています。それは若松先生が言われる、「無意識のレベルまで浸透している、いかに強くあるか、という自己責任論」が、大きく揺らぐ事態に陥っていることを示しているのではないでしょうか?
一方、浄土真宗の根本経典の一つ『観無量寿経』には、「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨(阿弥陀如来の光明は広くすべての世界を照らして、仏を念じる人々を残らずその中におさめ取り、お捨てになることはないのである)」という一節があります。
親鸞聖人が遺してくださったみ教えでは、私たちはもっぱら阿弥陀さまに「助けられる」ばかりの身です。それは同時に、この「私」が自力では何一つ成し遂げることのできない、はかない身であることを知らされる教えでもあります。
そうした「弱い私」に気づいた時、はじめて他のいのちの「弱さ」にも思いが至り、弱いがゆえの「いのちの尊さ」に気づく歩みが、開けてくるのではないかと思います。
他の「いのち」への想像力
寄稿の最後を、若松先生は次のように締めくくられています。
今は、「助ける」だけでなく、「助けられる」ことを学ぶ契機でもある。 「弱い人」は、助けられるだけの人ではない。 社会の底に横たわる「いのち」の尊厳という根本問題を照らし出す者としても存在している。
…「弱い人」は、身体的生命とは異なる 「いのち」 という不可視な存在が社会を成り立たせていることを教えてくれているのである。
自らの弱さを知り、他のいのちへの尊さへの想像力をはたらかせながら、この一日一日を過ごしてまいりましょう。
あとがき;「凡夫」の救い
親鸞聖人は、常にみずからを「助けられる」側においていました。象徴的なことばが、「凡夫(ぼんぶ)」です。
みずからの力(自力)では覚りに至ることができず、阿弥陀さまに救われるしかない身を「凡夫」といいます。
その「凡夫」について、親鸞聖人は次のように書いています。
「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ おほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと。
(『一念多念証文』より)
現代語訳がいらないくらい、わかりやすい文章ですね。そしてそのまま我が身に当てはまることばかりです。
注目してほしいのは、親鸞聖人が「われら」と書いている点です。聖人は、「欲深く、怒りや妬みに飲み込まれる」“ダメなあの人”のことを言っているのではありません。「その“ダメな人”は、私自身でありました」という立場を、生涯つらぬいていきました。
親鸞聖人でさえ「凡夫」の身から逃れられないのなら、いったい誰が「凡夫」でないと言えるでしょうか?
聖人の姿勢を、私たちも忘れないようにしたいものです。
解説;もうちょっと知りたい(お経のこと)
~参照先~
「摂取不捨」
本文の中で、『観無量寿経』の「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」という一節に触れています。
<『浄土真宗聖典』p102>
現代語訳は「阿弥陀如来の光明は広くすべての世界を照らして、仏を念じる人々を残らずその中におさめ取り、お捨てになることはないのである」となります。
この「摂取不捨」は、阿弥陀さまのはたらきそのものを示すことばです。
親鸞聖人は『浄土和讃』のなかで
<『浄土真宗聖典』p571>
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
摂取して捨てざれば 阿弥陀となづけたてまつる
と書いています。「摂取不捨」のはたらきがあるからこそ、阿弥陀如来は阿弥陀如来たり得るのだ、ということです。
では「摂取不捨」には、具体的にどのような意味があるのでしょうか?
親鸞聖人は「摂取不捨」に、次のような注釈をつけています。
<『浄土真宗聖典』p571脚注>
摂めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。
摂はものの逃ぐるを追はへとるなり。摂はをさめとる、取は迎へとる。
阿弥陀さまのはたらき(救い)は、いったん抱きかかえた者を決して捨てることがないといいます。また、阿弥陀さまから逃げようとする者まで、追いかけて抱きかかえてしまうというのです。
☆阿弥陀さまの救い
参照「他力本願」⇒👉No.176の解説を見る
参照「唯除の文」⇒👉No.177の解説を見る
では「阿弥陀さまから逃げようとする者」とは、誰のことを言っているのでしょうか?
それは、みずからを凡夫(欲深く、怒りや妬みに飲み込まれる者)と名乗った、親鸞聖人ご自身のことです。
聖人の主著『教行信証』信巻に、「悲歎述懐」と呼ばれる一節があります。
<『浄土真宗聖典』p266>
悲しいことに愚かな親鸞は、愛欲の広い海に沈み、名誉と利益の深い山に迷って、必ず阿弥陀さまに救われる身(正定聚;しょうじょうじゅ)に入っていることを喜ばず、真実のさとりに近づくことを楽しいとも思わない。恥ずかしく、嘆かわしいことである。
せっかく阿弥陀さまに助けられ、救われる身でありながら、それを喜ばずむしろ逃げようとする姿。親鸞聖人はそれを自分自身の姿に当てはめ、嘆いています。ただ、その姿はまさに私たち自身のことでもあると思いませんか?
「私の人生に、仏法など必要ない」「今はもっと大切な、手に入れなければならないものがある」「救われなくたって、自分の力で生きていける」…
そんなことをうそぶきながら、実は私たちは、「欲深く、怒りや妬みに飲み込まれる」状態(凡夫)の方が心地よいのではないでしょうか?
「人のため」…実は「自分の好感度のため」
「努力を惜しまない」…実は「他人より上にいたい」
「やさしい」…実は「好きなものにだけ」やさしい
心の奥底までのぞいた時、決して人には言えない、自分でも意識していない、目を背けたくなるような私の姿が顕れてきます。
それを咎めるでもなく、罰するでもなく、ただ「必ず助ける」という声を届け続けておられるのが阿弥陀さまです。その阿弥陀さまのはたらきが、決して誰一人もらさず抱きかかえる「摂取不捨」だというのです。
そんな阿弥陀さまの声に応えるにはどうしたらよいのでしょうか?
親鸞聖人は、「お恥ずかしい」「もったいない」と、ありのままの姿で人生を精いっぱい歩まれました。
そして「ただお念仏と共に生きよ」と、言い遺してくださいました。
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