私の『善知識(ぜんぢしき)』

 

 

仏教の葬儀や法事ではよく、「亡き人のお導き」とか「亡き人と共に歩む」といったことが語られます。(私もよく話します)

 

これらの言葉は、具体的にはどのようなことを指すのでしょうか?

どんな根拠に基づいているのでしょうか?

 

私自身の体験を含めて、お話しさせていただきます。

 

 

PDFはこちら⇒No.022

姪(めい)の死

 

わたくしごとになりますが、平成20年の5月、まだ9歳だった姪が亡くなりました。白血病でした。

 

私にとっては唯一のきょうだいである姉が、わが子の棺にすがって泣く姿を見ながら、胸がしめつけられる思いでした。

 

姪の涼佳(すずか)ちゃんは、私の上の娘と同級生で、たまに実家に戻ったときにはいつも仲良く遊んでいました。葬儀に参列した当時9歳と6歳になる娘たちもまた、親しいいとこの死に、何かを感じとっていたようです。

 

「世の中はどうしてこんなに悲しいことが起こるんだろう…」

世の無常を改めて思い知らされた出来事でしたが、姉のご主人が葬儀の挨拶で話されていた言葉が、今も耳に残っています。

 

葬儀での義兄挨拶より

 

娘の涼佳は、4歳のときに発病しました。

 

6年近く、頑張って病気と闘ってきました。

苦しい抗ガン剤治療や、骨髄移殖の後に起こる拒絶反応にも耐えてきました。

 

その間入退院を繰り返していたので、学校のお友達と遊んだり、家族で出かけたり、家でのんびりと過ごしたり…、そうしたごく普通の、あたりまえの生活がなかなかできませんでした。

しかしその分、一緒にいられる時間が本当に幸せでした。

 

この子は私たち夫婦に、周りの人たちに、そうした「あたりまえのこと」がどれだけ幸せなことなのかを教えるために、生まれてきてくれたのだと思っています。

9年という短い時間しか一緒にいてやれませんでしたが、涼佳はこれからもずっと、私たちをそばで見守ってくれていると信じています。

 

 

亡き人のお導き

 

この言葉を聞きながら、葬儀に参列していた同級生の親御さんたち・そして私も、無意識のうちにわが子の肩を強く抱いていました。

 

浄土真宗では、仏縁に導いてくださる方・真実に目覚めさせてくださる方を「善知識(ぜんぢしき)」と呼びます。

涼佳ちゃんは、姉夫婦にとっての、私にとっての、会場にいたすべての人たちにとっての「善知識」でありました。

 

どなたにも、先にお浄土へ往かれた「わたしの善知識」がいらっしゃると思います。

日常に追われ、そのことを忘れがちな私たちに「善知識」の方々はいつも語りかけてくださっているのかもしれません。

 

ある先生は、次のようにおっしゃいました。

「亡き人を、案じるあなたが、亡き人から案じられている」と…。

 

 

 

 

あとがき;失われた命は戻らないけれど

 

今回の「ことば」の内容は、葬儀の日、火葬を終えて最後まで残られたご遺族に向けて、よくお話しさせていただいています。

(真光寺では故人の火葬後、還骨勤行を兼ねた初七日法要を、前倒しでお勤めしています)

 

その時のご遺族は、大切な方を亡くした悲しみと、通夜・葬儀での参列者への気遣いでヘトヘトになっています。そこに小難しい話をされても、きっと苦痛に感じるだけでしょう。

できるだけ早く終わりたいとは思っているのですが、たった一つ、「失われた命は戻らないけれど、亡き人と共に歩む人生というものがある」ということだけはお伝えしたいと考えています。

 

阿弥陀さまの救い(浄土真宗)の大きな特徴は、「死んだらそこでしまい」ではないことです。

誰もが「お浄土で阿弥陀さまと同じ覚りをいただき、阿弥陀さまと同じ救いのはたらきをする仏となる」ことができるのです。

 

 参照「浄土」⇒👉 No.021の解説を見る

 

 

亡き人がお浄土から還ってきて、私たちを導いてくださるはたらきを「還相(げんそう)」といいます。また「還相回向(げんそうえこう)」と「回向」を付け加えることで、それが阿弥陀さまからのいただきものであることを示します。

 

誰もが終えていかねばならない人間としての生。しかし「死んでいく」意味が、「仏さまとしてはたらく“いのち”へと生まれていく」ことに転換されていくのが、お念仏の功徳です。

 

親鸞聖人は、「死んだらしまい」ではない“いのち”を阿弥陀さまからいただけることをたいへんに喜び、『教行信証』の中で詳しく解説しています。(後述)

「亡き人のお導き」や「亡き人と共に歩む」という表現は、決して漠然とした願望や慰めを言っているのではなく、浄土真宗の教えにのっとって語られてきたものなのです。

 

 

 

解説;もうちょっと知りたい(お経のこと)

 

還相回向

 

「還相回向」についてもう少し詳しく。

 

親鸞聖人の主著『教行信証』の証巻には、「還相回向釈」と呼ばれる一節があります。そこには聖人ご自身のことばで、

<『浄土真宗聖典』p313>

還相の回向というのは、思いのままに衆生を教え導くという真実の証(究極の覚り)に備わるはたらきを、阿弥陀如来の他力によって恵まれることである。

 

と書いています。

 

 参照「他力本願」⇒ 👉No.176の解説を見る

 

 

さらに「還相回向釈」の元となった曇鸞大師の『往生論註』を見ると、次のような記述に行き当たります。

<『浄土真宗聖典・七祖編』p107>

還相というのは、浄土に生まれた後、自利の智慧と利他の慈悲(究極の覚り)を成就することができ、迷いの世界に還ってきてすべての衆生を導き、みな共に覚りに向かわせることである。

(『教行信証』証巻に引用)

 

 

「浄土に生まれた方は、みなを覚りへ向かわせる。」

親鸞聖人や曇鸞大師のような善知識の方々が、お経(お釈迦さまの言葉)を丁寧に読み解いてくださったからこそ、私たち僧侶はご遺族に対して「亡き人が還相のはたらきをしてくださっています」と、自信を持って言えるのです。

 

また、どのように私たち衆生(残された遺族)を導いてくださるのかというと、

<『浄土真宗聖典』p320>

法身(究極の覚りの姿)というのは、一つの形に定まらないでさまざまな形を現し、さとりの声は一つの言葉に定まらないでさまざまな深い教えを行きわたらせ、さとりの心は一つの考えに定まらないでさまざまにはたらいて物事に対応する。

(『教行信証』証巻に引用)

 

とあります。

 

私はこのことを、「残されたあなたにいちばん相応しい形で」と申し上げるようにしています。

 

ある時は遺族の言葉となり、ある時は懐かしい音楽となり、ある時は風や波となり、そしていつもお念仏となって…。

目をこらし、耳を澄ませば、懐かしい人の導きがきっと見つかるはずです。

 

別れは確かに寂しいことですが、そこに「亡き人と共に歩む」心豊かな人生を見出していけるのが、この「還相回向」のはたらきです。

 

いずれ、別の「還相回向」のはたらきを書く機会も、持ちたいと思っています。

 

 参照「無量光明土」⇒ 👉No.184の解説を見る

 

 

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