「そのまま」か「変革」か

 

 

 

筆者(住職)は20代から30代にかけて、テレビ番組のディレクターをしていました。作っていたのは主に、「ドキュメンタリー」に分類される番組です。

 

企画が通り、構成を立て、いざ現場に撮影に行ってみると、頭で思い描いていたものとはまるっきり違うことがよく起こりました。(むしろ、ほぼ確実に違うことが起こると言った方が良いかもしれません)

 

最初は、頭の中の構成に現実の方を合わせようと、四苦八苦していました。そんなことをしても大抵は失敗に終わり、後で上司に大目玉を食らいました。

しかし経験を積んでくると、現実に起こっていることに対していかに頭の中の構成を崩すことができるかで、番組の出来が違ってくることが少しずつ分かってきました。

 

仕事をされている方は、誰しも似たような経験があるのではないでしょうか?

「事件は会議室で起こっているんじゃない!」というアレです。

 

ただ、決して頭の中で考えたことがダメなわけではなく、現実との相克のなかで新しい発見をしていくことこそが醍醐味なのではないかと思います。

 

今回ご紹介するのは、「セラピー」を大学院まで学んだ心理学者が「ケア」中心の現場に放り込まれ、悪戦苦闘するなかで自分を見つめなおし、さらには日本社会が抱える問題にまで思考を広げていく書籍からのことばです。

 

 

PDFはこちら⇒No.185

 

 

 

 

ケアとセラピーの違い

 

皆さんは、「ケア」と「セラピー」の違いがわかりますか?

 

心理学者の東畑開人さんによれば、“「ケア」とは相手を傷つけない。相手を支え、依存を引き受ける。そうすることで安全を確保し、生存を可能にする。「セラピー」とは相手の傷に向き合う。相手に介入し、自立を目指す。すると人は非

日常のなかで葛藤し成長する。”ことを意味します。

 

言葉を変えるなら、「ケア」とは「そのままを認める」ことであり、「セラピー」とは「自己の変革を促す」ことになります。

東畑さんは、この二つが入り混じった精神医療の現場での葛藤を本にされています。

 

 

『居るのはつらいよ ~ケアとセラピーについての覚書~』

東畑開人 著(医学書院)より

 

僕らが生きているこの社会では「変わる」ことがとても大事なこととされている。…目標を決めて、挑戦して、うまくいったかどうかをチェックして、そして改善する。そうやって目標を達成する、成長する、変わっていく。そういうことが良しとされている。

それが僕らの社会の倫理だ。

 

だけど、それは実は特殊なことではないか。僕らはとても偏った社会に生きているのではないか。

 

…デイケアでは「一日」を過ごせるようになるために、「一日」を過ごすのだ。そこでは、手段そのものが目的化する。メンバーさんはケアの中に留まるために、ケアを受ける。…もちろん、「社会復帰」を遂げるメンバーさんもいて、そういう場合は何か「治療」らしきことをしている実感があるのだけれど、ほとんどのメンバーさんはデイケアに「いられる」ようになるためにデイケアに「いる」。

 

…それでいいのか?

僕らは成長を目指すべきではないか、治療に向かうべきではないか?

そういう声が聞こえてくる。

 

だけど、それでも、デイケアにいると、成長しないこと、治らないこと、変わらないことの価値を感じてしまう。

 

 

 

現代社会に共通する問い

 

この葛藤は心理学だけの話ではなく、現代社会を生きるすべての人にとって共通の問いではないでしょうか?

 

「そのままの私で良い」のか。「成長し変わっていくべき」なのか…。

 

実は浄土真宗の教えでも、両方の話を聞くことがあります。

阿弥陀さまは「そのまま来い」と私を呼んでくださる。

一方でお念仏に出遇う者は「このままの私」でいられなくなる…。

 

親鸞聖人は、『教行信証』のなかで善導大師の文章を引きながら、阿弥陀さまの救いに出遇った者の心相(二種深信)を次のように書いています。

 

 

 

 

 

 

『教行信証・信巻』大信釈・善導引文

 

一つには、わが身は今このように罪深い迷いの凡夫であり、はかり知れない昔からいつも迷い続けて、これから後も迷いの世界を離れる手がかりがないと、ゆるぎなく深く信じる。

 

二つには、阿弥陀仏の誓願は衆生を摂め取ってお救いくださると、疑いなくためらうことなく阿弥陀仏の願力におまかせして、間違いなく浄土に往生すると、ゆるぎなく深く信じる。

 

 

 

二者択一ではなく

ここからうかがえるのは、どちらか一つだけでは偏ってしまうことではないかと思います。

 

私たちは「そのまま」を認められる場所がないと生きていけない一方で、ずっと「そのまま(迷いのまま)」に留まり続けることにも耐えられません。

両方あってこその「救い」であることを、上の文章は示しています。

 

そして「成長」ばかりが重視される現代社会では、「ケア;そのままを支える」の価値を見直していく必要があるのではないか、と思います。

 

 

 

 

あとがき;「そのまま」の救い

~参照先~

 

「ケア」の大切さを時間をかけながら考えていく、その過程にこそ東畑さんの伝えたいことがあると思います。ぜひ一度原本を手に取ってみてください。

 

 

東畑開人『居るのはつらいよ ~ケアとセラピーについての覚書~』(医学書院をクリック

 

 

 

さて、「そのまま」と聞いたら「このまま」と受け取ってしまうのが、私たち凡夫です。

「そのまま」と「このまま」は、似ているようで大きく違います。

 

 

20年前に制作したドキュメンタリー番組で、ある高校吹奏楽部の先生を取材しました。

素人同然で入学してきた生徒たちを、全国トップレベルにまで引き上げてしまう指導力で、吹奏楽関係者ならその名を知らぬ人はいない名物先生です。

 

取材のなかで特に印象的だったのは、先生がさまざまなタイプの生徒たちの、それぞれが持つ個性を面白がっていた姿です。

小さい頃から楽器を習っていた子から、中学時代に悪ガキで通っていた子まで、一人一人が持つ「そのまま」をまず認め、「とにかく一緒に音楽を楽しもう」というメッセージを伝え続けていました。

練習は長時間にわたりとても厳しいのですが、生徒たちからは「私は私のまま、ここにいても大丈夫なんだ」という安心感が、取材している私にも伝わってきました。

 

そして不思議なことに、「そのままのあなたで大丈夫」と言われ続けた生徒たちは、「このままじゃイヤだ」と練習に打ち込み始めるのです。

それぞれの個性を奪われることなく練習に打ち込んだ生徒たちが奏でる音は、なぜか聴いている者の心を打つのでした。

 

 

お念仏の話に戻ります。

「そのまま」と言ってくださっているのは、阿弥陀さまです。

二種深信の示すように、私たちは「そのまま」の安心をいただきながら一方で、「このまま」の私が抱える罪深さや迷いに無関心でいることはできません。

 

私は、親鸞聖人が「“このまま”の上にあぐらをかくわけにはいきませんね」とお示しくださっているのだ、と味わっています。

 

 

 

 

解説;もうちょっと知りたい(お経のこと)

 

二種深信

 

阿弥陀さまの救いに出遇った者の心相はどういったものなのか。

浄土真宗の七高僧の一人、善導大師の法語「二種深信」を改めて示します。

<『浄土真宗聖典・七祖編』p457>

 

一つには、わが身は今このように罪深い迷いの凡夫であり、はかり知れない昔からいつも迷い続けて、これから後も迷いの世界を離れる手がかりがないと、ゆるぎなく深く信じる。

二つには、阿弥陀仏の誓願は衆生を摂め取ってお救いくださると、疑いなくためらうことなく阿弥陀仏の願力におまかせして、間違いなく浄土に往生すると、ゆるぎなく深く信じる。

 

 

この「二種深信」と同じ意味のことを、親鸞聖人が常に口にしていたと『歎異抄』(弟子の唯円が執筆)には書かれています。

<『浄土真宗聖典』p853>

 

阿弥陀仏が五劫ものあいだ思惟して立てられた本願を、よくよく味わってみますと、それはひとえにこの親鸞一人のためでした。

思えばそれほどの思い罪業をもっている身でありますものを、助けようと思いたってくださった本願の、なんともったいないことか。

*「五劫」;人間の思いでは量り知ることのできないほどの長い時間

 

 

「五劫」という時間は、たとえ阿弥陀さまでも、果てしなく長い時間をかけて考え抜かないと私たちを「救いとげる」方法は思いつかなかったこと、それほど私たちの迷いが深いことを示しています。

また一方で、五劫という長い時間をかけて考え抜かれた救いであるからこそ、安心してお任せできるのだ、ともいただけます。

 

自分を責め続ける「自虐」とも違い、人生のどこかに「安心」というゴールがあるわけでもない。「いったいどうすれば良いのか?」と思われるかもしれません。

 

親鸞聖人は八十六歳という高齢で、次のような和讃を詠っています。

<『浄土真宗聖典』p617>

 

浄土真宗に帰すれども

真実の心はありがたし

虚仮不実のわが身にて

清浄の心もさらになし

 

(浄土真宗のみ教えに帰依しましたけれど、真実の心となることはありえないのです。うそ・いつわり・不実のこの私の身には、煩悩を離れた清浄の心もまったくないのです)

『正像末和讃』悲歎述懐讃

 

私たちは仏法のことを知ったり理解したりすることはできても、いざ実生活に戻ってみると同じことを繰り返してしまいます。

他人を憎もうと思って憎む人や妬もうと思って妬む人はいません。できれば怒りたくない、他者と譲り合い、共生していきたいと多くの人が思っているはずです。

しかしちょっとしたきっかけで私たちの心は憎しみや妬みで塗りつぶされ、怒りを抑えることを忘れ、敵を作っていくのです。

 

しかし同時に、そんな私たちをこそ「必ず救う」と願いを立てた仏さまから、喚ばれ続けるのがお念仏の教えです。

<『浄土真宗聖典』p617>

 

無慚無愧のこの身にて

まことのこころはなけれども

弥陀の回向の御名なれば

功徳は十方にみちたまふ

 

(人に恥じ、天に恥じる心のないこの身であり、真実清浄の心はないけれども、阿弥陀如来が回向された名号;南無阿弥陀仏ですので、その功徳は十方世界にみちみちているのです)

『正像末和讃』悲歎述懐讃

 

 参照「南無阿弥陀仏」⇒👉No.164の解説を見る

 参照「摂取不捨」⇒👉No.165の解説を見る 

 

 

阿弥陀さまの救いを私たち凡夫が味わうとき、常に「私のいたらなさ」と「仏のまちがいなさ」が表裏一体のものとしてあることを示すのが、二種深信です。

それは「喜び」の裏に「悲しみ」があり、「嘆き」の裏に「安心」があるという一見矛盾するようで、とても人間らしい心を言い当ててくださっていることばでもあります。

 

最後に、聖人は「親鸞一人のためでした」と味わっています。

 

「この人は良い人、あの人は悪い人…」と私たちはいつも評論家気取りで他人を評しています。しかしそこには、私自身を見つめる眼がありません。これを「邪見」といい、すべての迷いの基であると、お釈迦さまは言われました。

第三者としてものごとを冷静に見ているつもりの者が、もっとも迷いの中にいるというのです。

 

親鸞聖人は常に「私のこと」として仏法を、阿弥陀さまの救いを聞いていきました。

人間とは矛盾を抱えた存在です。仏法を「私のこと」として見ていくと、一見矛盾するような「二種深信」が出てくるのは必然だったのかもしれません。その矛盾を丸ごと抱えてくれる救いに、親鸞聖人は出遇ったのです。

 

親鸞聖人が示してくださった道は、私たちが幾度となく間違いながら、それでも歩んでいくことができる道なのだと思います。

 

 

用語一覧を見る ⇒ ここをクリック