あなたは一人ではありません
この一年ほど、「お一人さま」を意識させられたことはありませんでした。
あれほどわずらわしかったはずの社会との関わりが、いざ無くなってみると何とも寂しい気持ちになるものです。
「私は一人ぼっちだ」そんな思いにとらわれた時、思い出してほしいのが「あなたは一人ではありません」ということばです。浄土真宗のみ教えが伝えてくださっていることは、実はこの一点に尽きるかもしれません。
「今こそ、それをお伝えしないと」そう考え、昨年の4月、門徒さん全員に配布した「ことば」です。
☆PDFはこちら ⇒ No.164
新型コロナウイルス感染拡大のなかで
新型コロナウィルス感染拡大による不安が、日々広がっています。テレビや新聞でもこの話題ばかりで、一人で気持ちが落ち込んでいる方、得体の知れない焦燥感にさいなまれている方などがおられるのではないかと心配しています。
「つらい時は、誰かと一緒にいたい。しかし人に会うことができないというところが、新型コロナウィルスの本当につらいところだ」と、ある新聞記事に書かれていました。
真光寺はいま、満開の桜に包まれています(3月末時点)。法要の中止や法事のキャンセルなどで、住職もどことなく落ち着かない日々を過ごしている時、撮影した一枚の写真。「私の命は、こんなにも美しい自然に生かされているんだ」と、改めて気づかされた瞬間でした。
普段は見過ごしがちなことに目を向ける
こうした状況だからこそ、「自分を見つめなおす時間を作る」「身の回りの景色をゆっくりと眺めてみる」「家族との会話を大事にする・電話をする・メールのやり取りをする・手紙を書いてみる」「お経を声に出して味わってみる」……時々はニュースをシャットアウトして、普段は見過ごしがちなことに目を向けてみることが大切ではないでしょうか。
そんな時、必ず一緒にいてくださるのが阿弥陀さまであり、親鸞聖人であり、お浄土から見守ってくださる親しい方々であることを、どうか忘れないでください。
「親鸞聖人の遺言」と言い伝えられてきた歌
一人居て 喜ばは 二人と思うべし
二人居て 喜ばは 三人と思うべし
その一人は親鸞なり
あとがき
「あなたは一人ではありません」。これが浄土真宗のみ教えが伝えてくださっていることであると言いながら、僧侶の私自身がしょっちゅうそのことを忘れて生活しています。
「私は一人ぼっちだ」「誰も助けてくれない」そんな思いに陥ってしまうのです。そうやって過ごしていると、毎日何かに腹を立てたり落ち込んだり、その繰り返しでした。
だからこそ、折に触れて教えを聞くことが大切なのだと思います。
日常にばかり目を奪われている私に向かって、「思い出してください。あなたは決して一人ではありません」と呼び続けてくださる阿弥陀さまの声、それが「南無阿弥陀仏」です。
●「今月のことば」は、私が寺に入った平成18年(2006年)から毎月一回、欠かさず書き続けてきたものです。このホームページでは、新たな解説を加えてご紹介していきたいと思います。
解説;もうちょっと知りたい(お経のこと)
~参照先~
「南無阿弥陀仏」をひもとく「六字釈」
親鸞聖人の主著『教行信証(顕浄土真実教行証文類)』は、六巻(教巻・行巻・信巻・証巻・真仏土巻・化身土巻)にもおよぶ大著です。52歳で起筆。生涯をかけて推敲を重ね、弟子に初めて伝授した(書写を許した)のは、83歳の時であるといわれています。
難解な部分も多く、読み解くための僧侶の勉強会が、古今東西さかんに行われてきました。関連する書物も入門編から専門的なものまで多岐にわたります。
その『教行信証』行巻に、「六字釈」という一節があります。
<『浄土真宗聖典』p170>
「南無阿弥陀仏」の六字の持つ意味について、親鸞聖人が詳しく解釈している部分です。
もとは中国の高僧・善導大師(浄土真宗の七高僧の一人)が『観経疏』という書物の中で六字釈を行い、南無阿弥陀仏でなぜ浄土に往生することができるのかを明らかにしています。(「浄土」とか「往生」についても、いずれ詳しくお伝えする機会を持ちます)
『教行信証』の六字釈は、それに親鸞聖人ご自身の解釈を加えたものといえます。
そこには、「南無阿弥陀仏」が「本願招喚の勅命」である、と書かれています。かみくだいて言うと、「南無阿弥陀仏」は「われにまかせよ、必ず救う」という阿弥陀如来からのよび声だ、ということです。
その声は「一人ぼっちだ」と落ち込んでいる人の心に、「あなたを決して独りにはしません」と響いてきます。「必ず救う」という言葉の奥には、「どんな時のあなたであっても、どんな状態のあなたであっても救う」という意味が含まれているからです。
その声が私に届き、私の口から「南無阿弥陀仏」のお念仏となって出てくるのです。
私が唱えているのに、阿弥陀如来からのよび声である……。にわかには理解しがたいと思いますが、これもまた別の機会に詳しく書きたいと思います。
参照「本願招喚の勅命」⇒👉No.80 の解説を見る
阿弥陀如来の声を聞く者は、たとえ一人でいる時でも、決して「独り」ではないのです。繰り返しになりますが、日常に振り回される私にそのことを思い出させてくれるのが、仏法聴聞・教えを聞くことです。
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