信じてくれる存在
他者を「信じる」ことは、とても難しいことです。
「信じて大丈夫だろうか?」「裏切られたらどうしよう?」「自分が痛い目にあうことはないだろうか?」
いろいろな打算が頭をよぎります。
逆に相手を疑っている時にこそ、「あなたを信じているからね」とプレッシャーをかけたりしますよね。
他者を信じることができるのは、“信じてくれる存在” を持つ人なのではないか…。
今回はそんなお話です。
☆PDFはこちら⇒No.177
あるドキュメンタリー映画
『記憶』という映画があります。
犯罪を犯し少年院に送られた少女たちに話を聞き、出所後の姿まで追うドキュメンタリーです。この映画の監督が、撮影の後日談を加えて本を出版されています。そこに書かれたことばから。
中村すえこ 著
『女子少年院の少女たち』(さくら舎) より
ある女子少年院で、少女から質問を受けた。
「幸せになっていいんですか」
少女は、幸せになってはいけないと思っていた。こんな私は幸せになってはいけない、なれるわけがない、と。
また、ある少女は養父を刺してしまったという。
どうして? と聞くと、もう我慢ができなかったと。彼女はそれまでずっと性的虐待を受けていたのだ。
こんな世の中、クソだと思った。
自分で環境を選ぶことのできない子どもが、自分を守るために、生きるために犯罪を選ぶしかなかったのだ。
これまで彼女たちが育った環境には、虐待、ネグレクト(育児・養育放棄)のほかに、放任ではなく放置に近い環境が多いという現実を知った。
失敗の許されない社会で
映画の監督は、15歳でレディース(暴走族)の総長になり、自身も女子少年院に入った経験のある中村すえこさん。
自分が立ち直れた経験から、「人は変われる、社会は変われる」と信じ、今も多くの少年たちが犯罪行為に “追い込まれている” 現実を伝えたいと、映画を製作しました。
今の日本は、 “失敗の許されない社会” だと、中村さんは言います。
枠に収まらない子、道からそれた子の存在は許されず、人々の意識から意図的に消されていく社会。
しかしそれは、大人にとっても生きづらい社会なのではないでしょうか?
信じてくれる存在はいますか?
「嫌なことがあったらすぐ逃げちゃうので…」 そう佳奈はいうが、逃げずに闘いつづけることもむずかしいことだと、私は思う。
逃げだしたくなることなんて山ほどあって、そんなときに、寄り添ってくれる人がいる環境が必要なんだ。
安心できる場所があるということは、生きていくために大事なこと。
佳奈にはそういう居場所がなかったのかと思うと、胸が締めつけられる思いだった。…
私は2度目の逮捕をされたとき、もう一度人生を生き直したいと思った。
それは、自分のことを思っていてくれる母の気持ちを知ったことと、信じてくれる大人の存在があったからだった。
信じてくれる大人がいるということは、自分の存在を受け入れてくれることだと感じた。
阿弥陀さまの「信」
宗教では、神や仏を「信じる」ことから始まるとよく言われます。
しかし浄土真宗の阿弥陀さまは、私たちが「信じる」より先に、「あなたが救われていくことは間違いないよ」と、信じてくださっている仏さまです。
私たちの存在を受け入れてくれる仏さまだからこそ、安心できる居場所ができ、つらい人生を歩みきることができるのです。
阿弥陀さまをいただく私たちは、出所後の少年に「あなたを信じているよ」と声をかけられるでしょうか?
私自身に問いかけられている気がします。
あとがき;不寛容からの脱却
今回の「ことば」では、二つの問いかけをさせていただきました。
一つめは、「阿弥陀さまの信をいただいていますか?」ということ。
せっかく私たち一人一人の存在を受け止めてくれる仏さまがいるのに・安心できる居場所を用意してくださっているのに、そっぽを向いているのは私たちの方だったりします。
よそ見をしている私たちに「われにまかせよ、必ず救う」と、いつも喚びかけてくださっている声が「南無阿弥陀仏」のお念仏です。
参照「南無阿弥陀仏」⇒👉 No.164の「解説」を見る
二つめは、日常のなかで「“人を信じてあげない”ことによって、その人の安心できる居場所を奪っていないでしょうか?」ということ。
インターネット社会になり、自分の姿が見えないのをいいことに、他人を誹謗・中傷する行為が数多く見受けられます。そうした不寛容さに影響を受けて、直接ではないにせよ、誹謗・中傷に加担してしまう言動をとっていることはないでしょうか?
あるいは身近な人が失敗してしまった時・自分の気に入らない時、その人の存在を意図的に消してしまっていないでしょうか?
誰でも失敗を犯すことがあり得る、完璧な人間などいない。そうわかっていても、不寛容さに流されてしまうのはなぜでしょう。
恥をしのんで私自身のことを振り返ってみますと、不寛容さに流されてしまう時は、「自分が認められていない・何かに追われて安心できる居場所がない」と感じていることが多い気がします。
つまり不寛容さに流されないためには、まず私自身の「安心できる居場所」を確かめること、すなわち「信じてくれる存在」を持つことが必要なのではないかと思います。
そこで、問いかけの一つめ「阿弥陀さまの信をいただく」ことが大切になってきます。
どんな時も信じてくれる存在(阿弥陀さま)・安心できる居場所(お念仏)を持つ人は、きっと他者にも寛容になっていけるはず…。
阿弥陀さまの救いは、私自身を解放してくれます。それは私の苦しみを除いてくれるだけでなく、“人を苦しめる私” からの解放でもあるのです。
原本を読みたい方は、
中村すえこ『女子少年院の少女たち』~「普通」に生きることがわからなかった~(さくら舎)
をクリック。
解説;もうちょっと知りたい(お経のこと)
~参照先~
「あらゆる者を救う」という本願にある「唯除」の文
「あらゆる者を救う」という阿弥陀如来の願いは、『仏説無量寿経』の第十八願(本願)に示されていると、以前の解説で書きました。
参照「他力本願」⇒ 👉 No.176の解説を見る
もう一度、その第十八願を見てみましょう。
<『浄土真宗聖典』p18>
設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法
(わたくしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生まれることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。)
「あらゆる者を救う」と言うのに、一部の者を「除く」とあります。これはどういうことでしょうか?
経文にある「五逆」とは、五つの大きな罪のこと。
①父を殺す
②母を殺す
③阿羅漢(聖者)を殺す
④仏の身体を傷つける
⑤教団の和合一致を破壊する
そして「誹謗正法」とは、仏法をそしる罪・謗法罪(ほうぼうざい)のことです。
「こんなに重い罪を犯す者が救われるはずがない」。そう思われる方もいらっしゃるでしょう。
親鸞聖人をはじめ中国の高僧・曇鸞大師や善導大師もこの文に注目し、そこに込められたお釈迦さまの意図を明らかにしてくださっています。
仏教では人の行いを身業(身体で)・口業(口で)・意業(心で)の三つに分けています。仏教書の中には、身業・口業の元となる意業を「最も重い」とするものもあります。
そう考えてみると、私たちは心の中で人を殺してしまったことはないでしょうか? 「仏教など何の役にも立たない」と思ったことはないでしょうか?
そして親鸞聖人・曇鸞大師・善導大師の三人に共通していたのは、「罪を犯す誰か」として語るのではなく、五逆・謗法の罪を犯すのは「私かもしれない」という、自己を見つめる深い洞察に基づいているところでした。
曇鸞大師は『往生論註』のなかで、五逆の者も謗法の者も、阿弥陀如来の救いに遇えば(お念仏の喚び声を聞けば)、みな救われていくことを示しました。
また善導大師は『勧経疏』のなかで、「唯除五逆 誹謗正法」の文は、衆生がこの罪を犯さないよう、抑えとどめるために説かれたものであること示しました。
二人の論を受け、親鸞聖人は「唯除五逆 誹謗正法」の文を
<『浄土真宗聖典』p644>
五逆の罪を犯した極悪人を嫌い、仏法を謗る罪の重いことを知らせようとされているのです。そして、この二つの罪の重いことを示して、十方のすべての人びとが皆もれずに往生できることを知らせようとされたのです。
(『尊号真像銘文』)
と解釈しています。
「嫌う」という表現がされていますが、それは罪を犯したわが子を、叱りながら・悲しみながら抱きしめる親の思いです。
阿弥陀さまは罪を犯した者を決して見捨てることなく、慈悲の涙を流しながらその罪ごと摂め取ってくださるのです。
さらに大事なのは後半の文章です。ここでは「十方すべての人びと」と書いていますが、親鸞聖人は常々、次のようなことを口にしていたといいます。
<『浄土真宗聖典』p853>
阿弥陀如来が長いご苦労の果てに建てられた本願をよくよく考えてみると、それはただ、この親鸞一人を救うためであった。
思えば、それほどに重い罪を背負う親鸞であったのに、救おうと思い立ってくださった阿弥陀如来の本願は、なんと有難いことであろうか。
(『歎異抄』後序)
罪を犯していたのは、この私であった…。
間違いを犯し、人を傷つけながら生きていきたいと思う人は、おそらくいないでしょう。しかし意図せず、あるいは見て見ぬ振りをしながら、罪を犯してしまう・人を傷つけてしまう。それが私たち人間の姿ではないでしょうか。
そのことを誰よりも自覚し、重い罪(“人を苦しめる私” )から解放されていくことを願ったのが親鸞聖人でした。
わざわざ「唯除五逆 誹謗正法」というただし書きが付けられているのは、迷いの道を進む私たちに、生きるべき方向を示すための道しるべなのではないかと思います。
わが罪を知り、それでも救うという仏さまに出遇うこと。
「唯除」の文は、そのことを告げてくれているのです。
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