真の奇跡とは?
「奇跡」を語る宗教は数多くあります。
宗教の神秘性が高まり、信者獲得につながるからです。
しかし現代では「奇跡」を語るがゆえに、眉唾ものの宗教というレッテルを貼られてしまうことの方が多いかもしれません。
ただ、奇跡を信じる・信じないと言う前に、私たちは「奇跡」とは何かをきちんと考える必要があります。
果たして「科学を超える現象」が奇跡なのでしょうか?「私の願いが叶うこと」が奇跡なのでしょうか?
ある医師が立ち会った「奇跡」を見てみましょう。
☆PDFはこちら⇒No.178
最期は病院で?自宅で?
日本では8割近くの人が病院で亡くなっています。
「最期ぐらいは自宅で」。そう願う方の自宅療養を助けてくれる「訪問診療」という制度があります。
京都で訪問診療を続ける尾崎容子医師は、これまで数多くの穏やかで温かい看取りに立ち会ってきました。
尾崎容子著
『それでも病院で死にますか』(セブン&アイ出版)より
奥さまは涙ぐみながら笑い顔を見せ、こう続けてくれました。
「上手に死にましたわ…」
その言葉に私たちも感きわまりました。
「さすがお父さんや」「上手やな」「人徳やなー」と泣き笑いで、旅立ったAさんを見送ったのでした。
みんな、やり切ったすがすがしさで笑顔のお別れでした。
後日あらためてAさんのご自宅にお参りに行きましたら、奥さまはこう振り返っておられました。
「あの時、先生から“終末期”と言われて気が動転しました。ですが、心の準備と実務的な準備ができて、しっかり見送ることができました」
悲劇ではない「死」
穏やかな最期に立ち会ってきた尾崎医師は、「死を迎えることは悲劇ではない」と言い切ります。
(もちろん急な別れや、痛みや苦痛を放置された死、誰にも顧みられない死は例外です。)
そして患者本人や家族が残された時間をどう過ごしていきたいのかに耳を傾け、どうサポートするのかに心を砕くといいます。
しかし、画期的な新薬の誕生など「奇跡」が起こることを、最後まで願い続ける方もいます。
そんな時、尾崎医師はさりげなくこんな言葉をかけました。
「ご自身がみなさんからいかに愛されていて、いかに恵まれているかを実感し、残された時間を満ち足りた気持ちで過ごすことができるならば、それこそが真の奇跡ではないでしょうか。
新薬ができて命を延ばせても、“自分だけがこんな不幸な病気にかかって、いつまでも闘病生活を送っている” という気持ちでいる限り、今と何も変わらないのではないでしょうか」
人身受け難し 仏法聞き難し
仏教には、宗派を超えて唱えられる「三帰依文(さんきえもん)」というものがあります。
「人身受け難し…仏法聞き難し…」という一節で始まるこのことば。冒頭を現代語に訳すと、
この世に人間として生まれた深い意味と尊さに、今 初めて気付くことができました。
それはまさに仏法の教えを聞くためであったのだと、今 ようやくいただくことができました。
このどうしようもなく愚かで迷い続けるしかない身は、人間に生まれた一生涯において救われることがなかったら、もう二度と救われるチャンスはないでしょう。
(鶴田義光 師 の意訳)
となります。
生まれてきたこと、仏法を聞く身になったこと自体が奇跡だ、ということを示すことばです。
仏教徒として、この奇跡を忘れずに生き・死んでいきたいものです。
あとがき;「奇跡」に気付くこと
はじめに「科学を超える現象」が奇跡なのか、「私の願いが叶うこと」が奇跡なのか、よく考える必要があると書きました。
内閣府の調査(2013年)では、日本人のおよそ55%が「住み慣れた我が家で最期を迎えたい」と希望しているそうです。しかし現実には、自宅で亡くなる方の割合はわずか13.2%にとどまります(2017年 厚生労働省)。
現状では、尾崎先生のような自宅での看取りをサポートしてくださる方がいなければ、「住み慣れた我が家で最期を迎える」ということは、まだレアケースなのです。
では「住み慣れた我が家で最期を迎える」ことが「奇跡」なのかというと、そうでもなさそうです。
尾崎先生は、患者さんが大切なこと(自分がどれだけ愛されているか・恵まれているか)に気付くことこそが「奇跡」だとおっしゃいます。
そして仏教の三帰依文は、“この私が人としての命をいただき、仏法を聞いていること自体が「奇跡」であると気付きなさい”、と教えてくださいます。
つまり「奇跡」とは、実は日常の中にあふれていて、それに私が気付くことができるか否かにかかっているのではないでしょうか?
その気付きを与えてくれるのが、仏法を聞くことであり、お念仏申すことであるのです。
原本を読みたい方は、
尾崎容子『それでも病院で死にますか』~人生の最期、住み慣れた場所で旅立つ幸せ~
セブン&アイ出版(2020年に解散)
解説;もうちょっと知りたい(お経のこと)
~参照先~
仏と成る「奇跡」(成仏と八正道)
仏教の目的は、私が煩悩を離れ、覚りを開くことです。
言葉を換えれば、私が仏となること(成仏)です。
その成仏への道をお釈迦さまは「八正道(はっしょうどう)」という形で示してくださいました。
具体的には、
「正見(しょうけん)」正しくものごとを見る
「正思惟(しょうしゆい)」正しい思索
「正語(しょうご)」正しい言葉
「正業(しょうごう)」正しい行い
「正命(しょうみょう)」正しい生活
「正精進(しょうしょうじん)」正しい努力
「正念(しょうねん)」正しい思いの持続
「正定(しょうじょう)」正しい精神統一
の八つです。
そして八つの基礎となるのが最初の「正見」です。
ものごとを正しく見ることができない者が、正しい考えを持ち、正しい言葉を使い、正しい行いをする…ことなどできないからです。
浄土真宗の開祖・親鸞聖人は深い内省のすえ、自身は最初の「正見」もまったく持ち合わせていない「煩悩具足の凡夫(煩悩から生涯逃れられない者)」であると告白しました。
よく考えてみれば、「正見」を持ち合わせないどころか「私が正しい。間違っているのは相手である」と、よこしまなものの見方(邪見)しかできないのが人間というものではないでしょうか?
「私が正しい」と思った瞬間、それが邪見(“私だけ”が正しい)になってしまうのが、人の心のやっかいなところです。
己だけの正義を振りかざし間違いを犯していく姿を、国際社会でも身近な人間関係でもイヤというほど見せつけられます。
そしてそれは、私自身の姿でもあります。
そんな私たちが、仏になど成れるのでしょうか?
親鸞聖人は著書には、次のように書かれています。
<『浄土真宗聖典』p708>
いずれもみな、石や瓦やつぶてのような私たち自身のことを言っているのである。
それが阿弥陀如来の本願を疑いなく受け入れ・肯いていけば、如来の光のなかに抱き取られ、必ず大いなる覚りを開かせてくださる。…
石や瓦やつぶてなどを、見事に金(こがね)にしてしまうように救われていくのである。
(『唯信鈔文意』より 住職意訳)
「石・瓦・つぶてを金(こがね)にしてしまう」というのは、煩悩を抱えたままの人間(石・瓦・つぶて)が、成仏して阿弥陀さまと同じ覚り(金)に至ることを指します。
そんなことができるのは、唯だ阿弥陀さまのはたらき(本願他力)だけである、と親鸞聖人はいただきました。
参照「他力本願」⇒👉 No.176の解説を見る
これこそが、何よりの「奇跡」ではないでしょうか?
阿弥陀さまが本当に願っていてくださっているのは、迷い・悲しみ・苦しみに満ちた人生を歩む私たちを成仏させる(苦悩を除く・覚りを開かせる・他者を救う仏にする)ことです。
そんな本願に恵まれることのしあわせについて、親鸞聖人がつねづね、お弟子さんたちにおっしゃっていたことがあります。
<『浄土真宗聖典』p853>
阿弥陀如来が五劫もの(人間の尺度では計りきれないほどの)長い間、思いをめぐらせて建てられた本願をよくよく考えてみると、それはただ、この親鸞一人をお救いくださるためであった。
思えば、この私はそれほどに重い罪を背負う身であったのに、救おうと思い立ってくださった阿弥陀如来の本願の、何ともったいないことであろうか。
(『歎異抄』後序)
親鸞聖人が喜ばれた阿弥陀如来の本願は、すべての人々のもとに、すなわち私自身のもとにも届いています。
どうかその「奇跡」に、気付いてください。
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