自分を標準にしない
昨今、考えられないような事件や災害が起こり、多くの人々が不安を感じる世の中になってきている気が致します。
そんな時、何を標準にして物事を考えるかで、その人の生き方が決まってくるのではないでしょうか?
☆PDFはこちら⇒No.107
自分を標準にする危険性
多くの人は、まず「自分」を標準に考えると思います。しかし仏教は、その危険性を説きます。
「自分」を標準にすると、自分に都合の良いこと・都合の良い人だけを大切にし、都合の悪いこと・都合の悪い人の存在を抹殺しようとする心が起こるからです。
梯實圓 著
『浄土から届く真実の教え』(自照社出版)より
自分を標準にして考えてはいけません。また他人を標準にして考えるものおかしい。…
それでは何を標準にして考えるのか、法を標準とするのです。
その法を学ばなければ何も出来ません。
法というのは、自分の都合を中心に考えるのではなくて、目覚めた方が示す正しいものの道理に従って、仏様が仰るお言葉を標準にして、ものを考えていくことです。
お念仏と共に生きる
「仏様を標準にせよ」と言われても、具体的にどうしたらよいかピンとこない方もおられると思います。
それを梯實圓先生(浄土真宗本願寺派 勧学)は、「いつもお念仏と共に生きなさい」と教えてくださいます。
“慈悲のこころを起こしなさい”と、仏様(阿弥陀様)が仰るのです。
慈悲というのは人の悲しみをともに悲しみ、人の痛みをともに痛むようなこころです。…
「南無阿弥陀仏」と、この阿弥陀様が私の口にあらわれてくるということは、「どうぞ、私の言うとおりにものを考え、行動するようにしてください」ということが聞こえてくるのです。
それが聞こえますと、私の周辺が変わってくるのです。どうして変わるかというと、私のこころが変わっていくのです。
一人ひとりのこころが、自分の生きる周囲、世界の状況の意味を変えていくのです。
意味が変わってくると人生が変わっていきます。一人ひとりの、自分の人生が変わります。…
ですからお念仏は、私がとなえているというよりも、そのお念仏が私の人生を動かしていると思ったらよいのです。
阿弥陀様が私の心に
私の心を変えることはたいへん難しいことです。
しかし阿弥陀さまが私の心に入り満ち、私の心が変えられていくことが、お念仏と共に生きるということです。
不条理な世の中を変えることはできずとも、私たち一人ひとりの心が変わり、人生の意味を変えていくことはできる。
そうすれば、少なくとも身近な周りの状況だけでも、変えていくことはできるのではないでしょうか。
あとがき;「心が変わる」こと
「心が変わると、世界の見え方が変わる」とは、仏教に限らず、よく言われることです。
しかし「自分」を標準とする心(自己中心的な心)は、そう簡単に拭い去れるものではありません。この心を変えようと思えば、たいへんな努力や厳しい修行が必要でしょう。
お念仏の教えでは、心を変えるのは私自身ではなく阿弥陀さまです。
阿弥陀さまが私の自己中心的な心に入り満ちてくださることで、自己中心ではいられなくなり、世界の見え方が変わっていくのです。
阿弥陀さまは、智慧の心と慈悲の心を完成させたほとけさまです。その阿弥陀という確かな「標準」をもって、世界が見えてくるのです。
自己中心の心は、完全に無くなったりはしませんが、いつも阿弥陀さまが私と共に喜び・悲しみ、励まし・戒めてくださる道が開けます。
そしてこれこそが、お念仏の“ご利益”です。
浄土真宗では、健康長寿や金運などの現世利益を説きませんが、阿弥陀さまを心にいただいた者が得られる利益(りやく)は、しっかりと説いています。
ただ、そこに物質的なもの一つもなく、不条理な世界を生き・死んでいくのに間違いない安心をいただける、目に見えない利益ばかりです。
これを「現生十益(げんしょうじゅうやく)」といいますが、また別の機会に詳述します。
参照「現生十益」⇒👉 No.143の解説を見る
原本を読みたい方は、
梯 實圓『浄土から届く真実の教え』~『教行証文類』のこころ~
自照社出版(2020年に廃業)
解説;もうちょっと知りたい(お経のこと)
~参照先~
信心とは何か
阿弥陀如来はお経のなかで、「尽十方無礙光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)」とも表されます。「何ものにもさえぎられることのない、あらゆる所に至り届く光のほとけさま」という意味です。
親鸞聖人は『尊号真像銘文』という著書のなかで、
<『浄土真宗聖典』p651>
「尽十方無礙光如来」というのは阿弥陀如来のことで、この如来は光明のことなのです。
「尽十方」というのは「尽」は尽すということで、ことごとくという意味です。十方世界を尽して、ことごとく満ちておられるということです。
「無礙」というのは、障ることがないということで、障ることがないと申すのは、衆生の煩悩や悪業もさしつかえにならないということです。
と書いています。
あらゆる所に至り届いている光明は、私の心の奥深くまで照らしてくれます。
そのことを親鸞聖人は次のようにも書いています。
<『浄土真宗聖典』p709>
如来は、数限りない世界のすみずみにまで満ちわたっておられる。
すなわち、すべての命あるものの心なのである。
『唯信鈔文意』
阿弥陀如来は私たちの心を照らすだけでなく、「私たちの心」そのものと言えるほどに、入り満ちてくださるというのです。
浄土真宗では、この阿弥陀如来が心に入り満ちていることを「信心」といいます。
「信心」といえば、一般には私たちが起こす「信じよう」「信じなければ」という心だと考えます。
しかしそれを親鸞聖人は「自力心」と言い、むしろ阿弥陀如来が入り満ちてくださることを邪魔するものだと考えました。私たちが起こす心には必ず、「自分を標準にする」ことがついてまわるからです。
衆生(私たち)の煩悩や悪業もさしつかえにならない阿弥陀如来の光明ですが、唯一さまたげとなるのが、この「自力心」です。
「自力心」で心の蓋を閉じていると、阿弥陀如来が心に入ってこられないからです。正確に言うと、入ってきていることに気付けないからです。
私たちがすべきことは、心に如来を迎え入れることだけなのです。
煩悩や悪業がさしつかえにならないということは、私の心を作り変えたり壊してしまったりしなくても良いということです。
お念仏の教えが「信心をいただいた瞬間に救われる」といわれる理由は、ここにあります。
信心をいただくことで、煩悩を抱えたままの私に阿弥陀如来が入り満ちてくださる、阿弥陀如来と歩む人生に変わっていくのです。
『正信念仏偈』のなかで、親鸞聖人は信心をいただく大切さを
<『浄土真宗聖典』p207>
還来生死輪転家 決以疑情為所止
速入寂静無為楽 必以信心為能入
(迷いの世界に流転し続けるのは、阿弥陀如来を疑い、自力のはからいをするからである。速やかに覚りの世界に入るには、ただ信心よりほかに因はない)
と詠っています。
阿弥陀如来の光明は、お釈迦様から2,500年、親鸞聖人から800年が経った今でも、世界のすみずみにまで満ちわたっています。
どうか心の蓋を開け、如来の声に耳をすませてみてください。
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