「自力」と「他力」

 

東京オリンピックが開幕しました。

コロナ禍での開催かつ色々と問題も起こりましたが、いざ始まってみると世界最高峰の闘いに思わず見入ってしまいます。

 

そんなスポーツのニュースでよく聞くのが、「他力本願」ということば。

もともとは浄土真宗の柱となる教えのことですが、誤って使われることが多いのが実状です。

 

そして「他力本願」と対照して使われるのが「自力」ということば。

「自力」と「他力」二つの言葉の使い方が、実はその人の視点を表していたりします。

2018年に行われたワールドカップサッカーの放送から。

 

 

PDFはこちら⇒No.143

 

「他力本願」の誤用

 

2018年、男子サッカーワールドカップ ロシア大会は、日本が決勝トーナメントに進出し、たいへんに盛り上がりました。

決勝トーナメント進出をかけた対ポーランド戦は、日本が他会場の試合結果にゆだねる消極的な戦法をとり、賛否両論が沸き起こりました。

 

その是非はともかく、テレビの司会者がさかんに口にしていた言葉が気になりました。「日本は“他力本願”の消極的な戦法で、決勝トーナメントに進んだ」というものです。

 

本来、“他力本願”とは浄土真宗の柱となるみ教えのことで、テレビで使われていた意味とは異なります。

ちなみに辞書を引いてみると…。

 

 

『新明解 国語辞典』(三省堂)より

 

【他力本願】

阿弥陀仏を頼って成仏を願うこと。

誤って、だれかがしてくれることを期待して、自分は何もやらない意にも用いられる。

 

 

「自力」のみを評価する社会

 

司会者は、誤って用いていたのです。

そして「“他力本願”ではなく、“自力”での決勝トーナメントを目指すべきだったのでは?」という使い方もされていました。

 

この“自力”という言葉には、「自己責任で立派にやり遂げる」といった意味が含まれているように感じます。

しかしお念仏をいただいた者として見た時、“自力”(自己責任)のみが評価される人生は「立派でいよう」と何かに追われ、いつも安心することができない歩みにも映ります。

 

親鸞聖人は『教行信証』のなかで、御自身のことを次のように見つめられています。

 

“悲しきかな愚禿鸞  愛欲の広海に沈没し  名利の太山に迷惑して…”

(悲しくも私・愚かな親鸞は、愛欲に翻弄され名声に惑わされて…)

 

 

 

 

浄土教は“絶望から始まる”

 

“自力”ということばには、親鸞聖人のように内面に眼を向け、自らの弱さ・愚かさを見つめる視点が欠けています。

 

梯 實圓  著

『親鸞聖人の教え・問答集』(大法輪閣)より

 

浄土教というのは、元来大人の宗教なんです。

いい歳をして悪いことだと知りながら、性懲りもなく愛欲や憎悪の煩悩を起こし、人をねたんだりそねんだりして、自分で悩み苦しんでいる。

そんな自分の愚かさとみじめさに気づきながら、その悪循環を断ち切れない自分に絶望したところから、浄土教は始まるのです。

その意味で浄土の教えは、決して「きれいごと」の宗教ではありません。

 

自分のぶざまな愚かさを見すえながら、そんな自分に希望と安らぎを与えてくれる阿弥陀如来の本願のはたらきを「他力」と仰いでいるのです。

だから他力とは、私を人間の常識を超えた精神の領域へと開眼させて導く、阿弥陀仏の本願力を讃える言葉だったのです。

 

阿弥陀さまの“他力”のはたらきだからこそ、迷い悩みながら歩む私の人生が照らし出され、温かく包まれていく安心が与えられるのです。

 

 

 

 

あとがき;自力の呪縛

 

私たちは学校で、そして社会に出てからも「自力で成し遂げることは素晴らしいことだ」と教わってきました。その呪縛から逃れることはなかなかできません。

 

親鸞聖人にまつわる、一つのエピソードがあります。

 

旅の途中、佐貫という土地(現在の栃木県邑楽郡あたり)に立ち寄った際、利根川の氾濫で多くの犠牲者被災者が出ていました。

そこで聖人は「読経」による衆生救済を行おうとしました。浄土三部経を千回読もうとしたのです。

*浄土三部経は浄土真宗の根本経典で、『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』の三部四巻。全部読むのに、一回2時間以上かかります。

 

ところが聖人は、本来であれば100日以上かかる読経を、わずか4~5日でやめてしまいました。その理由は、「自分には読経で人々を救う力はない」というものです。

それは読経を始めてから気づいたのではなく、聖人にも最初からわかっていたことでした。しかし苦しむ人々を見て、何かできることはないかと考えた末での行動だったと思います。

 

「苦しんでいる人々を自分の力(読経)ですぐに救えるとは…。私はなんと思い上がったことをしていたのか。自分自身が救われない身であるからこそ、阿弥陀さまの救いをいただいているのに。」

そんな思いが聖人にはあったのではないでしょうか。

 

 参照「唯除の文」⇒ 👉No.177の解説を見る

 

 

記録では読経をやめたところまでしかわからないのですが、その上でなお、聖人は何かしらの手助けをしたのではないかと私は想像しています。

役に立つ・立たないという世間的な評価は考えず、たとえ小さくても自分にできることです。

 

例えば、人々の苦しみに寄り添い、悲しみのことばに耳を傾ける。家族を亡くした方には「阿弥陀さまに抱かれ、お浄土に往かれましたよ」と告げ、安心してもらう。そして「苦しみに満ちた人生も、お念仏の教えに遇うことでいずれ見え方が変わってきます」と励ます等々…。

 

阿弥陀さまの「他力」に出遇った者は、自らの弱さ・愚かさに気づくからこそ、次に「今の私にできることは何か」と考えることができるのではないかと思います。そのことを聖人自身が示してくださった貴重なエピソードだと、私はいただいています。(その根拠は「解説」に詳述します)

 

「他力本願」とは、決して「なまけて他人まかせにする」といった意味でないこと、おわかりいただけたでしょうか?

 

 

原本を読みたい方は、

梯 實圓『親鸞聖人の教え・問答集』(大法輪閣)をクリック

 

 

 

解説;もうちょっと知りたい(お経のこと)

 

他力本願のご利益(現生十益)

 

親鸞聖人が読経をやめ、被災された人々に何かしらの手助けをしたのではないか、という想像の基になっているのは、「現生十益」(げんしょうじゅうやく)ということばです。

「他力本願」をいただいた者の利益(りやく)について、親鸞聖人が主著『教行信証』のなかで端的に述べているものです。

<『浄土真宗聖典』p251>

 

文章を見てみましょう。

 

金剛の信心(他力の信心)を得たなら、阿弥陀如来のはたらきによって速やかに迷いの世界を巡り続ける道を超え出で(浄土に生まれ)、この世においては必ず十種の利益を得させていただくのである。

 

十種とは何かといえば、

一つには冥衆護持(眼に見えない方々にいつも護られる)

二つには至徳具足(南無阿弥陀仏に込められたこの上なく尊い徳が身にそなわる)

三つには転悪成善(罪悪が転じて善となる)

四つには諸仏護念(仏がたに護られる)

五つには諸仏称讃(仏がたに誉め讃えられる)

六つには心光常護(阿弥陀如来の光明に摂取され、常に護られる)

七つには心多歓喜(心によろこびが多い)

八つには知恩報徳(如来の恩を知り、その徳に報謝する)

九つには常行大悲(常に如来の大いなる慈悲を広める)

十には入正定聚(かならず覚りを開いて仏になることが決定している者となる)という利益である。

(『教行信証』信巻・現生十益より)

 

 参照「現生十益」⇒👉No.186の解説を見る

 

 

他力をいただくということは、必ず覚りにいたることが定まるということです。そして覚りまでの道中も、仏がたに護られ・心によろこびが多く・阿弥陀さまの御恩を感じながらの歩みとなる…。これが「他力本願」のご利益です。

 

十益の八つめ「知恩報徳」、九つめ「常行大悲」に注目してください。

阿弥陀如来の徳に報謝する・阿弥陀如来の慈悲を広めるとは、どういうことでしょうか?

 

第一には、まちがいなく「お念仏申すこと」です。

そしてこれを広げると、阿弥陀さまのお慈悲を知り、いただいた命を精いっぱい生きること」「阿弥陀さまのお慈悲を、一人でも多くの方に身をもって伝えること」にもなるのではないかと思います。

 

親鸞聖人はもちろん、「知恩報徳」「常行大悲」の人生を歩みました。

それを基に想像したのが、あとがきに述べた佐貫での聖人の姿です。

 

おもしろいのは、これらが「念仏者の条件・義務」ではなく「念仏者のご利益」として語られていることです。

言うなれば、「自分の力で努力しなければならない道」(条件・義務)ではなく、「何かのために努力できる身を喜ぶ道」(利益)です。だからこそ、「今の自分にできることをさせていただこう」という姿が生まれてくるのです。

 

「今の自分にできること」は、人それぞれ違います。生きている人間の数だけ、「知恩報徳」「常行大悲」のやり方があると思います。

どうか「他力の救い」に出遇い、「今の自分にできること」を考えてみてください。繰り返しになりますが、「お念仏申すことだけで十分ですよ」と、阿弥陀さまはおっしゃってくださっています。

 

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