「今、会える」浄土

 

 

 

浄土真宗の特徴は、高潔な僧侶ではなく、在家で普通の暮らしを送りながらお念仏を喜んで生きた人々の名が、数多く残っていることです。

 

誰にまねできないような学問や修行をした人ではなく、日々の暮らしに追われながら、悩みながら、それでも「なまんだぶ・なまんだぶ」と手を合わせて人生を送った在家の人々。

 

そうした人々の名が残っているのには、阿弥陀如来の救いのあり方・浄土のあり方が関係しています。

 

 

PDFはこちら⇒No.184

 

 

 

 

妙好人の言う「ここが浄土」とは

 

江戸末期から昭和初期の時代に生きた、浅原才市という有名な妙好人(みょうこうにん)がいました。

 

妙好人とは、お念仏をことのほか喜び、お念仏に生きた在家の方々を指します。

才市さんは石見(島根)の船大工でしたが、出稼ぎで真光寺の近所・鞍手郡小竹町あたりに滞在したことがあるとも言われています。

 

その才市さんが遺された詩を、二つほどご紹介します。

 

 

才市、どこが浄土かい

ここが浄土のなむあみだぶつ

 

 

 

娑婆と浄土が違うなら

わたしゃ法は聞かぬのに

わしも娑婆も浄土も阿弥陀も

みなひとつ

なむあみだぶつ

 

 

 

死んでからしか会えない浄土?

 

私たち僧侶は、よく浄土のことを「また会える世界」と説きます。

これは『仏説阿弥陀経』に出てくる「倶会一処(ともにひとところにて会う)という一節を基にしているのですが、実は浄土をこのことばだけで表すと、誤解を生んでしまうことがあります。

 

それは、浄土が「死んでからしか会えない世界」となってしまう点にあります。

亡くなった方と「死んでからしか会えない」のなら、私も早く命を終えていった方が良いのでしょうか?

 

決してそんなことはないはずです。

亡き方と今、会いながら・支えられながら、精一杯生き抜く」ことこそが、亡くなっていった方に対する最大の御恩報謝ではないでしょうか?

 

 

 

 

親鸞聖人は、次のようにお示しになっています。

 

 

『親鸞の弥陀身土論 ~阿弥陀如来・浄土とは~』

渡邊了生 講述(真宗興正派)より

 

『真仏土巻(教行信証)』の冒頭には、こういう言葉があります。

 

 “つつしんで真仏土を案ずれば、

   仏はすなわちこれ不可思議光如来なり、

   土はまた無量光明土なり。”

 

「真仏土(阿弥陀如来の浄土)」を考えてみるならば、「不可思議なる光の用(はたらき)」が「真なる如来」であり、「無量なるはかりしれない光明の用(はたらき)」が「真土」である、ということです。

 

…ここにおいては、「如来・浄土」がルビーやダイヤで造られたようなすごい世界であるとは決して言われないのです。

あくまでも「光明という用(はたらき)」と言われます。

 

「今ここでの用(はたらき)」が真なる如来・浄土であるということです。

 

 

今の私に届いている「はたらき」

 

「浄土」とは、死の向こう側にある遠い世界ではなく、今の私に届いている「はたらき」であるということです。

 

そうであるならば、今の私が阿弥陀如来・浄土の「はたらき」に抱かれていることになります。

また、浄土で仏になった亡き方の「はたらき」も、今の私に届いていることになります。

 

「死んだ先で会える」だけではない、「今、会える」浄土ということを念頭に、もう一度、浅原才一さんの詩を読んでみてください。

 

 

 

才市、どこが浄土かい

ここが浄土のなむあみだぶつ

 

 

 

娑婆と浄土が違うなら

わたしゃ法は聞かぬのに

わしも娑婆も浄土も阿弥陀も

みなひとつ

なむあみだぶつ

 

 

 

 

あとがき;「境界を超える」教え

 

浅原才市さんの詩は、いずれも「境界を超える」救いを喜んでいます。

 

この娑婆世界と、如来の浄土という「境界」。わたしと、阿弥陀如来という「境界」。

「ここが浄土」であり、「わたしも阿弥陀もみな一つ」と言える才市さんの感性は、お念仏の教えを聞き抜いた人だからこそ得られたものです。

 

 

そもそも私たちの人生は、「境界」を引いていく作業の連続です。

「私のもの/あなたのもの」「私の家族/他人の家族」「私の国/敵対している国」・・・

そうした線引きをしていかないと、社会生活が混乱をきたすからです。

 

しかしその線引きによって、「私の取り分が少ない」「他の家族の方が良い思いをしている」「敵国が憎い」と、自ら苦悩の原因を生み出し続けているのが私たちの姿ではないでしょうか。

 

それを親鸞聖人は「凡夫(ぼんぶ)」と呼び、

 

凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず

 

と喝破しました。(「われら」と表現しているのが、親鸞聖人らしいところです)

 

阿弥陀如来の救いは、私たち凡夫が引く境界線をたやすく超えて届きます。

そして、境界線を引いて自らの殻に閉じこもっていく私たちの姿をあらわにします。

「狭い殻を破って、大きな世界を生きよ」という如来の喚び声が届いたとき、浅原才市さんのような「みな一つ」という感性が育てられるのです。

 

ただ、そのことに気づいてもまた、私たち凡夫は次の境界線を引いていきます。親鸞聖人が指摘しているように、「臨終の一念にいたるまで」それが治ることはありません。

 

だからこそ、一生聞法を続けるのです。

聞法を続ける人は、それが僧侶であれ在家の方であれ、そこに「境界」はありません。

私たちが「ある」と思いこんでいる「境界」が、実は「ない」ということを教えてくれるのが、阿弥陀如来の救いであり、浄土のはたらきです。

 

 

 

渡邊了生『親鸞の弥陀身土論 ~阿弥陀如来・浄土とは~』(真宗興正派をクリック

 

 

 

解説;もうちょっと知りたい(お経のこと)

 

無量光明土;光の浄土

 

浄土真宗の七高僧の一人、天親菩薩(世親)は『浄土論』という書物のなかで「願生偈」という詩をうたっています。

<『浄土真宗聖典・七祖編』p29>

その一節に阿弥陀如来の浄土を指して、

 

 観彼世界相 勝過三界道

 究竟如虚空 広大無辺際

 

 ;阿弥陀如来の浄土の姿を観察してみると、三界(欲界・色界・無色界)の煩悩に覆われた世界を超え一切の礙げなく、広大にして辺際(はじ・境界)がない

 

と示しています。

「辺際がない」とは、浄土のはたらきが全ての世界を覆い、包み込んでいることをいいます。

すなわち浄土とは、私たちがイメージするような限定された空間ではない、というのです。

 

 

七高僧の意を受けて、親鸞聖人は阿弥陀如来の浄土のことを

「無量光明土」;限りなき光の世界

と示しました。

(『教行信証・真仏土巻』<『浄土真宗聖典』p337>

 

さらに阿弥陀如来のことは

「無礙光(むげこう)如来」;限りなき光のほとけ

とも呼んでいます。

(『教行信証・行巻』<『浄土真宗聖典』p141>

 

いずれも、一つの空間に限定されない、あらゆる世界に届くはたらきを表しています。

 

 参照「無礙光如来」⇒ 👉No.016の解説を見る

 

 

そこには「娑婆と浄土」といった、私たち凡夫が考えるような「境界」はすでに存在していません。

 

では、浄土に往生された方はどうしているのでしょうか?

親鸞聖人は「浄土に往生された方は、もう一度この娑婆世界に還ってきて、まるでお釈迦さまのごとく人々を救い・導くはたらきをされる」と言います。

<『浄土真宗聖典』p560>

 

 安楽浄土にいたるひと

 五濁悪世にかへりては

 釈迦牟尼仏のごとくにて

 利益衆生はきはもなし

  『浄土和讃・讃弥陀偈讃』

 

 

浄土という場所に往きっぱなしなのではなく、はたらきとして還ってくるというのです。

 

親鸞聖人の大きな功績の一つに、阿弥陀如来の救いには、私たち凡夫をさとりの世界へ往生させる「往相回向(おうそうえこう)」と、さとりの世界から還ってきて如来と同じはたらきをさせる「還相回向(げんそうえこう)」の二つの回向があると明示したことが挙げられます。

<『浄土真宗聖典』p141>

 

 つつしんで浄土真宗を案ずるに、

 二種の回向あり。

 一つには往相、二つには還相なり。

  『教行信証・行巻』冒頭

 

 参照「還相回向」⇒👉 No.022の解説を見る

 

 

「境界のある浄土」ではなく「さとりのはたらきそのもの」と示す浄土真宗の教えに基づいているからこそ、「還ってきている」といういただき方ができます。

さらに言えば、浄土という別の場所に往ったのではなく、今生の命尽きたとしても、そのままここで「はたらき」となり、私たちを支え続けてくださっているのです。

 

如来となった亡き方が、今ここで、私を救い導くはたらきをしてくださっています。

「今、会える」のが、お念仏の教え・浄土真宗なのです。

 

 

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