「恩を知る」ご利益
「日本も格差社会に入った」と言われるようになって、久しくなりました。
最近はよく、「親ガチャ」という言葉を目にします。自分の親は選べない、自分がたまたま生まれ落ちた環境が恵まれているか否かで一生が定まってしまうことを、ゲームのルールに喩えた言葉です。
今も昔も「親が選べない」ことについては変わりありませんが、最近になって「親ガチャ」という言葉が出てきたのには、理由がありそうです。
それは現代の日本社会で、親の経済力が子の学力に影響したり、経済格差がそのまま子に引き継がれたりする状況が顕著になってきているからではないでしょうか。
またそれだけでなく、自分が恵まれた環境にいることが「当然の権利」であると考える人が増えてきていることも、こうした状況に拍車をかけているような気がしてなりません。
「運も実力のうち」という言葉がありますが、本当は「実力も運のうち」なのではないか…? 今回は親鸞聖人の言葉と、新聞に載っていた識者の言葉から考えてみたいと思います。
☆PDFはこちら⇒No.186
浄土真宗の10のご利益
親鸞聖人の主著『教行信証』には、お念仏をいただいた者が生きている間に得ることのできる、10個の“ご利益”があると書かれています。
そのなかに、「知恩報徳の益」というものがあります。
「私がいただいている御恩を知り、その徳を知らされる」ことが、“ご利益”だというのです。
「恩を忘れるな」とはよく聞きますが、「恩を知ることがご利益である」とは一体どういうことなのでしょうか?
逆に「恩を知らない」ことで何が起こるかを考えてみましょう。
マイケル・サンデル(ハーバード大教授)
日本の若者との対話を載せた新聞記事より
能力主義の勝者は、たまたま学べる環境にいた幸運を忘れ、「努力が足りない」と敗者への謙虚さを失いがち…。
勝者が自分の成功は自分のおかげだと思ってしまうと、自分より恵まれない人を見下す傾向があります。そしてそれは、勝者の間にある一種のプライド、一種の思い上がりを生み出します。そして、負けた人のやる気を失わせます。
こうして社会はバラバラになっていくのです。
おおた としまさ(教育ジャーナリスト)
塾選びで人生が決まる現状を問う新聞記事より
そもそも偏差値で表される学力によって社会的地位が決められてしまう社会構造が、根本的な問題だと思います。
…教育は個人のためだけにあるわけではないのに「頑張った自分は教育で得たものを独り占めしていい」と考えている人も多い。恵まれた環境で得たものを世の中に還元する、という価値観を親も子も持って欲しいと思います。
憍慢に陥らないために
努力で何かを手にすることは素晴らしいことですし、達成感も得られます。
しかし人間の限りある知恵をあたかも万能であるかのように考え、それを身につけたことで他を見下す者を、仏教では「邪見憍慢(じゃけんきょうまん)」と表します。
他人を見下す、他の家族を見下す、他の仕事を見下す、他の世代を見下す、他の国を見下す…。
憍慢には、際限がありません。
親鸞聖人は「遇;たまたまあう」という言葉をよく使います。多くのご縁に恵まれて、たまたま生かされている命であることを示す言葉です。
私を生かしている“無限のはたらき”を「阿弥陀如来」と喜び、「自らの手柄は一つもない」と謙虚に生きたのが、私たちの宗祖です。
私がいただいている「大きなご恩に気づくこと」ができることは、憍慢に陥らない「ご利益」なのです。
アンゲラ・メルケル(元ドイツ首相)
講演集『わたしの信仰』より
謙虚とは無気力の謂(いい)ではなく、無限を知ったことから生まれる、ポジティブで希望にあふれた「生(いのち;筆者註)」を形成する感覚です。
あとがき;能力主義の社会がもたらすもの
「努力した者が報われる」と聞くと、至極まっとうな話に聞こえます。しかし今の日本はこうした言葉の裏で、「成功した者だけが良い思いをする」という実態になっているように感じます。
その大きな原因が、「自己責任」という言葉に代表される結果主義・能力主義の蔓延です。
日本は他の先進国に比べ、子どもの教育に対する国の援助が少ないというデータがあります。(👉『子どもに貧困を押しつける国・日本』山野良一著・2014 光文社新書 など)
「子どもの教育は、それぞれの家庭の責任においてなされるべきである」という風潮が、こうした政策を後押ししているのではないでしょうか。
受けられる教育に差があれば、親の経済格差がそのまま子どもに受け継がれ、格差が固定化していく原因にもなってしまいます。
今や日本は、格差社会の代表格のように言われるアメリカよりも、教育を受ける機会が得られずチャンスをつかめない子どもたちを多く生む社会になってきているのです。
こうした流れを変えられるかどうかは、教育を受ける環境に恵まれ、実際にチャンスをつかんだ人々にかかっていると思います。
より多くの人が、「成功した理由には自分の努力もあるが、何よりも環境に恵まれたからだ」「自分が受けた教育は社会資源でもあるのだから、得られたものを社会に還元していこう」という考えを持てば、今の流れは変わってきます。
その時、「恩を知ることはご利益だ」という親鸞聖人の言葉は、現代を生きる私たちにも大切なことを教えてくれます。
厳密には、ここで言う「恩」とは「阿弥陀さまからのご恩」のことです。しかし阿弥陀さまからのご恩を知る者は、周囲からいただいたご恩にも目が開かれていくことでしょう。
「運も実力のうち」という社会よりも、「実力も運のうちだった」と気付ける社会の方が、きっと多くの人にとって生きやすい社会だと思います。
解説;もうちょっと知りたい(お経のこと)
~参照先~
現生十益
冒頭に書いた「お念仏をいただいた者が生きている間に得ることのできる、10個の“ご利益”」とは、現生十益(げんしょうじゅうやく)という言葉で表されています。(『教行信証』信巻)
改めてその文章を見てみましょう。
<『浄土真宗聖典』p251>
金剛の信心(他力の信心)を得たなら、阿弥陀如来のはたらきによって速やかに迷いの世界を巡り続ける道を超え出で(浄土に生まれて仏の覚りを得)、この世においては必ず十種の利益を得させていただくのである。
十種とは何かといえば、
一つには冥衆護持(見えない方々にいつも護られる)
二つには至徳具足(南無阿弥陀仏に込められたこの上なく尊い徳が身にそなわる)
三つには転悪成善(罪悪が転じて善となる)
四つには諸仏護念(仏がたに護られる)
五つには諸仏称讃(仏がたに誉め讃えられる)
六つには心光常護(阿弥陀如来の光明に摂取され、常に護られる)
七つには心多歓喜(心によろこびが多い)
八つには知恩報徳(如来の恩を知り、その徳に報謝する)
九つには常行大悲(常に如来の大いなる慈悲を広める)
十には入正定聚(かならず覚りを開いて仏になることが決定している者となる)という利益である。
参照「他力本願のご利益」⇒👉No.143の解説を見る
今回取り上げたのはその八番目・「知恩報徳」でした。
その他の利益(りやく)についても幾つか簡単にご紹介します。
一番目の「冥衆護持(みょうしゅごじ)」とは、見えない方々に護られる利益です。見えない方々とは、観音菩薩や勢至菩薩、弥勒菩薩など阿弥陀如来の救いを私たちに示してくださる方々のことです。
二番目の「至徳具足(しとくぐそく)」とは、信心いただくこと(お念仏いただくこと)がそのままお浄土で覚りを開く種となることを示しています。
三番目の「転悪成善(てんあくじょうぜん)」とは、善いことが起こるという意味ではなく、私が「悪いこと」だと思っていたことでも、それがお念仏に出遇う機縁になるという意味です。
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六番目の「心光常護(しんこうじょうご)」とは、阿弥陀如来の光明に照らされ、必ず救われていくことを示しています。これについては、「摂取不捨」ということばを参照してみてください。
参照「摂取不捨」⇒👉No.165の解説を見る
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そして最後の十番目にある「入正定聚(にゅうしょうじょうじゅ)」が、一番目から九番目のご利益の中心にあるものです。
この「入正定聚(かならず覚りを開いて仏になることが決定する)」を展開すると、一番目から九番目までの利益になるとも言えます。
親鸞聖人は、迷いの命のまま救いが定まる身となること(現生正定聚;げんしょうしょうじょうじゅ)をたいへん喜び、「阿弥陀とひとし・弥勒とおなじ」(『親鸞聖人御消息』)という表現まで使って、いただいた徳を讃嘆しました。
その徳とは、死ぬまで迷い続ける凡夫でありながら、阿弥陀如来にいだかれ、必ず覚りに導かれていく大きな利益のことです。
そして迷いの道中も、そのご恩を知らされながら感謝と共に生きていける利益も指しています。
迷いの身のまま救われていく。
この一見矛盾を抱えたような教えの中にこそ、煩悩から離れることができないまま生き、そして死んでいかねばならない私たちの、唯一の救いがあるのではないでしょうか。
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