照らし出される姿

 

 

インターネットの世界は、動画にせよSNSにせよ、自動的に自分の好み・自分の見たいものを優先的にピックアップして表示するように設計されています。

知らず知らずのうちに、見たくないものは目にしなくて良いようにできているのです。

 

一見便利になったようで、ここには大きな落とし穴があると思います。

偏った考え方をしても、その偏りに気づかないまま偏りを補強するような情報ばかりを取り入れてしまうからです。

 

言葉を換えれば、「感受性」が鈍ってしまうとも言えます。

作家の村上春樹さんのことばに、次のようなものがあります。

 

「感受性を磨くためにはどうすればいいか?・・・

ひとつだけ言えることは、気持ちよく生きて、美しいものだけを見ていても、感受性は身につかないということです。

世界は痛みで満ちていますし、矛盾で満ちています。

にもかかわらずきみはそこに、何か美しいもの、正しいものを見いだしたいと思う。そのためには、きみは痛みに満ちた現実の世界をくぐり抜けなくてはなりません。その痛みを我が身にひりひりと引き受けなくてはなりません。

そこから感受性が生まれます。」

(『村上さんのところ』新潮社 より)

 

 

今月は、目を背けたくなるような私自身の姿についてです。

不治の病に侵されたある女性の独白から。

 

 

 

PDFはこちら⇒No.195

 

 

 

 

「聞きたくない」ことから始まった

 

私が人生の不幸を悲しむと、「本当の人間になれぬのがもっと不幸でしょう」と、Kさんが言う。…

「自分の心の位置を知れ」とか、「我が身に遇え」とか、そんなことが今の私に必要なのか。

 

もう、会いたくない。聞きたくない。…

 

聞きたくないと思っても、何故か心に残る。忘れようと思うほど、心に引っかかる。

『仏は私に何をくださるか』米沢英雄 著より)

 

 

医師であり念仏者でもあった米沢英雄さん(故人)の著書のなかに、不治の病に侵され絶望している女性と、彼女へお念仏の救いを懸命に伝えようとした方(Kさん)とのやり取りが書かれています。

 

見舞いの人々からどんな慰めを受けても、病魔に侵された心が救われることはありませんでした。

しかし「本当の自分に遇うことでしか、生死の問題は解決しない」というKさんの真摯な言葉に、初めは「聞きたくない」と思っていたこの女性も、次第に耳を傾けるようになっていきました。

 

 

 

自分を見つめ始める

Kさん

「私は計算ずくの女ですから、必ず裏があります。あなたはどうですか。

仕えた私、務めた私、耐えてきた私、その裏にあるもの、欲と名の外に一歩も出られぬ私、真実ひとかけらもない私、媚びへつらいの心、恥も知らず、謝恩もうすい私、私はこういう自分をもっております。…

怒り、腹立ち、そねみ、そしり、悪いとわかっていても、それをどうすることもできぬ自分、動いてやまぬ心、一瞬も浄らかな心をもたぬ心が私にあるが、あなたはどうですか。」

 

女性

「一睡もせずに自分を見つめる。

…ある、あります、表面に出さずに、くすぶり続ける自分、外面だけの笑顔で、泣いて怨んで、引きつり顔で暮れた二十六年。

情けない、だらしない、おろかな私が出て来る。何という女であろう。激しい自己嫌悪が全身を走る。」

 

 

 

 

阿弥陀如来の光に照らされて

 

お念仏の救いに遇うということは、阿弥陀如来の光に照らされるということです。

阿弥陀如来の光は、私たちの歩む道を温かく照らしてくださるのと同時に、私たち自身の醜い姿を照らし出します。

 

自分でも気づかなかった醜い姿を知るのは嫌なことですが、それから目を背け、ごまかしたままでは本当の心の安寧は得られないことを、二人のやりとりが示してくれています。

 

この女性の病は、残念ながら治ることはありませんでした。しかし次のような言葉を遺してくださっています。

 

 

「危ないところでした。皆様に怨みを残して終わるところでした。」

「朝が来た。今日も命をいただく。恥かしい悲しい業が、念仏の手を合わせる。」

「このままで、申し訳ないままで、帰らせていただく身の幸せ。」

 

 

 

出典

 『仏は私に何をくださるか』米沢英雄 著(星雲社)

 

 

 

 あとがき

 

阿弥陀如来の救いには、必ず「どんな私でも包んでくださる温かさ」と、「救いがたい私自身の姿があらわになる厳しさ」の両面があります。

 

「厳しさ」と書きましたが、上に出てきた女性が遺してくださった「危ないところでした」という言葉のように、救いがたい私を自覚しないまま人生を送ってしまうよりも、ずっと豊かな歩みになると思います。

 

よく紹介させていただく親鸞聖人のことばですが、『歎異抄』には

 

この私は、果てしなく深く重い罪を背負う身であったのに、救おうと思い立ってくださった阿弥陀如来の本願の、なんともったいないことであろうか。

<『浄土真宗聖典』 p853より現代語訳>

 

 

とあります。

我が身を知ることで、自然に手が合わさるありがたさ。

みなさんは、本当に感謝するべきものに出遇えていますか?

 

 

このあたりのことは、「二種深心」「悪人正機」といったテーマで解説していますので、ぜひそちらもご覧になってください。

 

 

参照「二種深心」⇒👉No.185の解説を見る

 

参照「悪人正機」⇒👉No.039の解説を見る

 

 

 

用語一覧を見る ⇒ ここをクリック