最後はむなしい人生になる?

 

宗教で「救われる」とは、実際にどういうことなのでしょうか?

 

病気が治る仕事がうまくいく事故に遭わない”…

こうした現世利益をうたう宗教はたくさんあります。しかしそれを突き詰めると、どれも「私の願いをかなえる」ことにつながります。

お釈迦様は「私の願い」のことを「迷い」あるいは「煩悩」とおっしゃいました。たとえ一つの願いが満たされても、必ず次の願いが起こり、苦しみ続けることに変わりはないからです。

 

この「迷い・煩悩」の連鎖から解放されることこそが「救われる」ことであり、その道を説いたのが仏教です。

そして自らの力では決して「煩悩」から逃れることができないことに気づき、阿弥陀如来のはたらき(本願他力)によって「煩悩」から解放される道を伝えてくださったのが、親鸞聖人です。

 

「阿弥陀如来のはたらきによって救われる」。そのことについて考えさせられる「ことば」をご紹介します。

 

 

PDFはこちら ⇒No.176

 

 

一人ぼっちで死んでいく?

 

今月は滋賀県にある真宗大谷派の寺院、玄照寺住職・瓜生崇さんの著書から。

在家出身の瓜生さんがまだお寺に入られる前のこと。病床の父との別れを赤裸々に語っておられます。

 

瓜生崇『さよなら親鸞会 ~脱会から再び念仏に出遇うまで~』

サンガ伝道叢書)より

 

ボロボロ涙を流しながら、「つまらん人生だった、つまらん人生だった」って言うんですよ。それで泣くんですよね。

もう遅くなっていましたから、「明日仕事があるから、俺はもう帰らなあかん、お父さんじゃあね」っていうふうに言うたら、「行かないでくれ」って、また手を握るんですわ。

それでも、悲しゅうてその場に居てやれんかったもんですから、やっぱり手を振りほどいて帰った。 それが父親と話 をした最後だったんですね。

…  私は思いました。人間って、どうやっても一人ぼっちなんだなって。実の息子でも、明日仕事があるからって言って、臨終に帰っちゃうんです。

それは私のことです。 何てひどいことをしてしまったんだろうと思いますけれども、きっと私も、死ぬときはこうなるだろうと思いました。

 

…  こうやって一生懸命 岩を持ち上げても、それは必ず落ちていくんだって。積み上げてきたものは必ず全部崩れるんだと。そうなったならば、どれだけ一生懸命に頑張ってきても、最後はむなしい人生になるしかないじゃないかと。

 

 

阿弥陀如来のはたらき(本願力)に遇う

 

親鸞聖人は『高僧和讃』のなかで、「本願力にあいぬれば、むなしくすぐるひとぞなき」と言われています。阿弥陀如来の本願力に遇えば、決してむなしい人生にはならないという意味です。

 

 

では、「阿弥陀如来の本願力に遇う」とはどういうことか?

瓜生さんは様々な場所に出かけて行っては、ひたすらお念仏の教えを聞きつづけました。そして一つ、分かったことがありました。

 

 

ずっと如来様は私に対して、「心配ないよ」って言うてくださっていた。心配ないよってことは、間違いのない信心を頂いて、確かな私になって、その確かな私を救うって言うてるんじゃないん です。フニャフニャの私を救うって言うてはるんですよ。

 

一生懸命進んだ先にあるんじゃないんです。今この身、このまま、今ですよ。救いは未来にあるんじゃないんです。昔にあるんでもないんです。私の今にあるんです。

今が救われるということは、私の過去も現在も未来 も、みんな如来様に認めていただけるということなんです。

 

失ったように見えた人生の一時期も、すべて南無阿弥陀仏の中の出来事であったということです。取り戻す必要なんてなかったのです。

 

 

 

「聴聞」:むなしい人生ではないことを聞く

 

如来様の「心配ないよ」という声が、「南無阿弥陀仏」のお念仏です。

 

私たちは、ただ「南無阿弥陀仏」のいわれを聞くだけです。フニャフニャの私のまま生き・死んでいくその人生が、むなしいものではなかったことを聞いていくのです。どうぞ、ご聴聞されてください。

原本を読みたい方は、

瓜生崇『さよなら親鸞会 ~脱会から再び念仏に出遇うまで~』(サンガ伝道叢書)をクリック。

 

 

あとがき;「そのまま」の救い

 

冒頭で触れた「救い」について。

誰もが自分の人生を必死に生き、それ故に悩みながら歩んでいるのではないかと思います。

しかし頑張った先に必ず「救い」があれば良いのですが、そう簡単ではないのが人生です。必死にたどりついてみたら、まだまだ先があって心が折れそうになることもよくあります。

 

本当に救われるのは、歩みの先にある「理想の自分」になった時ではなく、今の一歩一歩を「そのまま認めてもらえた」時ではないでしょうか?

あるいは、これまでの歩みを自分自身で「うなずくことができる」ことなのではないかと思います。

 

「思うようにはいかないが、仏さまがいつも見ていてくださる。南無阿弥陀仏」「いろいろあったが、私の人生で良かった。南無阿弥陀仏」それは幻想でも自己暗示でもなく、阿弥陀如来という仏さまのはたらき(本願他力)に出遇っていることなのだと、親鸞聖人が教えてくださいます。

 

 

解説;もうちょっと知りたい(お経のこと)

 

「他力本願」について

 

ここでは「本願他力」と書いていますが、一般的には「他力本願」の方がよく目にする表現だと思います。

「他力本願」と聞くと、「他人の力を頼りとし、自分で一切努力をしない怠け者の態度」という悪い意味に誤解している人が多いのではないでしょうか?

そう、これはまったくの誤解なのです。

 

他力」とは「阿弥陀如来の本願力」のことです。細かく言えば、「利他(私たち衆生を必ず救いとげる)の力(如来のはたらき)」です。

 

私たち衆生は、どんなに厳しい修行をしてもどんなに深く学んでも、「私の願い(煩悩)」から逃れられません。

生き物として老・病・死は自然なことであるはずなのに、「老いたくない・病気になりたくない・死ぬなんてもってのほか」という思いは消え去ることがありません。「自分がかわいい」という思いを消し去ることも、至難の技です。

そんな救いようのない者でも必ず救いとげようという「本願」を起こしてくださったのが、阿弥陀如来という仏さまです。

 

この本願が説かれているのが『仏説無量寿経』であり、浄土真宗の根本聖典とされるお経です。

『仏説無量寿経』では、阿弥陀如来があらゆる者を救うために、48個の願い・「四十八願(しじゅうはちがん)」を建ててくださっています。その第十八番目の願を「本願」と呼び、48の願いの中心と考えたのが親鸞聖人でした。

 

この第十八願は、次のように書かれています。

<『浄土真宗聖典』p18>

設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法

(わたくしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生まれることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。)

 

 

この本願は、

「われにまかせよ、必ず救う」

と短くも表現されます。本願(第十八願)の本意は、一切の条件を付けずそのままの私を救ってくださることを示しているのです。

 

 

さて、この第十八願を細かく見ていくことはまたの機会に譲って、阿弥陀如来のはたらき・本願力の話を続けます。

親鸞聖人は『教行信証』行巻の中で、中国の高僧・曇鸞大師の書物を引きながら本願力について述べておられます。

<『浄土真宗聖典』p190>

概略を書くと、

いま、はかりしれないほど長く厳しい修行を完成された阿弥陀如来は、その功徳をすべて私たち衆生に向けてくださっている。功徳は「南無阿弥陀仏」となって衆生に届き、老少善悪を超えてあらゆる者を救うはたらきをしてくださる。「南無阿弥陀仏」こそが、衆生が救われていく唯一無二の道である。

そして私たちの口に「南無阿弥陀仏」が称えられるのは、すべて阿弥陀如来の本願力によるものであり、私たち衆生の力はまったく必要としない。

ということになります。

 

ここで、「やっぱり他者の力に頼ることじゃないか」と思われる方がいるかもしれません。しかし「如来の本願力」におまかせするのが怠け者の道であるかというと、そうではありません。

 

私たちがどんなに表面を取り繕っても、阿弥陀如来にすべて見抜かれています。

本願に遇うことで、弱さもずるさも思い上がりもすべて抱えながら歩まざるをえない、現実の自分の姿に向き合うことになります。瓜生住職の言葉を借りれば、フニャフニャの自分があらわになります。

本願に遇いお念仏申す道は、目を背けたくなるような自分の姿に何度も何度も繰り返し向き合い続ける歩みでもあるのです。

 

 参照「唯除の文」⇒👉No.177の解説を見る

 参照「摂取不捨」⇒👉No.165の解説を見る  

 

こうしたお念仏の道は、「二種深信」とも表現されます。その話も、また別の機会に。

 

 

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