一年で人生が終わるとしたら

 

「人生があと一年だったら…」

 

もしいま目の前のことに手一杯になっている方がいたら、一旦立ち止まり、この問いを思い浮かべてみるのはいかがでしょうか?

これまで気付いていなかった、あるいは忘れていた自分の人生の意味を考えるきっかけになるのではないかと思います。

 

実際、長年ホスピスに勤めてきたある医師は、命の終わりを意識した患者さんたちが自らの人生を振り返りながら変わっていく姿を、数多く目にしてきたといいます。

今月は、その医師のことばから。

 

 

 

PDFはこちら⇒No.179

 

 

『もしあと一年で人生が終わるとしたら?』

小澤竹俊 著(アスコム)より

 

みなさんに質問です。

もし、あと一年で人生が終わるとしたら、あなたら

旅行に行きたいですか?

家族と楽しいひとときをすごしたいですか?

もっと仕事をしたいですか?

趣味に時間を使いたいですか?

おいしいものが食べたいですか?

ほしかったものを買うでしょうか?

 

…なぜこのような質問をしたかというと、人生に締め切りを設けることで、何がやりたいか、何が大切かが明確になるからです。

 

「本当に大切なもの」を考える

 

長年ホスピス医療に携わり、3500人を超える患者さんたちを見送ってきた小澤竹俊医師には、一つの気づきがありました。

 

それは「死」を前にすると、人は必ず自分の人生を振り返るということです。

そして、人生で大切なものは何かを考えていくことによって、多くの方が「良い人生だった」と納得してこの世を去っていくそうです。

 

だからこそ小澤医師は「あと一年で人生が終わるとしたら?」という問いを、元気なうちから考える機会を持って欲しいといいます。

大切なのは、やりたいことの中身ではなく、「本当に大切なものは何か」を自問自答する過程です。

 

 

人生の意味を見つけるのは、そう簡単ではありません。

その理由は、私たちが人生の意味を「自分のしたことが、誰か(あるいは社会)の役に立っているかどうか」と結びつけてしまいやすい点にあります。

 

…しかし、誰かに役に立つことだけを「意味のあること」ととらえる考え方には限界があります。その理屈でいくと、「自分は誰の役にも立っていない」と思った瞬間、自分の人生の意味や、自分が存在している意味を見失ってしまうからです。

 

…社会の中で元気に働いていいるうちは、私たちはわかりやすいミッション、わかりやすい価値や意味ばかりに目を向けがちですが、多くの人は「人生の終わり」という大きな苦しみが近づいてくると、価値観ががらりと変わり、それまでわからなかった人生の意味や、自分が生きてきた理由、与えられたミッションに気づきます

 

…「人生があと一年で終わる」と考えれば、それまでの価値観が崩れ、自分を縛っていた固定観念やしがらみから解き放たれ、見える景色が変わってきます。

 

蓮如上人からのメッセージ

 

本願寺中興の祖・蓮如上人のお手紙には、「朝には紅顔あって、夕には白骨となれる身なり」という有名な一節があります。

だからこそ「お念仏申せ」と、上人はおっしゃいます。

 

その意味は、「いつ死ぬかわからない身です。あなたにとって本当に大切なものは何か、しっかり考えなさい。そのことを阿弥陀さまは、お念仏を通じてあなたに呼びかけておられます」ということだと、私はいただいています。

 

 

 

 

 

あとがき;大切な人への手紙

 

小澤医師は、患者さんたちが自らの人生を振り返るきっかけを作るために、あるはたらきかけをしているそうです。

 

「人生の中でもっとも思い出深い出来事は何ですか?」「大切な人に伝えておきたいことはありますか?」

いくつかの質問を投げかけ、それを“大切な人への手紙”という形でまとめるのです。

 

まだ元気な時に「人生があと一年」と仮定されても、身が入らないという方もおられることでしょう。

そういう方は考えたことを書き出してみて、“大切な人への手紙”にまとめてみようとしたら、また違った景色が見えてくるかもしれません。

 

 

 

原本を読みたい方は、

小澤竹俊『もしあと一年で人生が終わるとしたら?』(アスコム)をクリック

 

 

 

解説;もうちょっと知りたい(お経のこと)

 

後生の一大事(タノムタスケタマヘ)

 

最後に紹介した蓮如上人のお手紙は「御文章(ごぶんしょう)」と呼ばれ、浄土真宗のお勤めのあとに拝読されています。

 

なかでもこの「白骨章」は、もっとも有名なものです。

葬儀や火葬後の還骨勤行で読まれ、比較的理解しやすいことばで諸行無常のことわりをしみじみと感じさせられる内容となっています。

少し長いですが、原文をそのまま載せておきます。

<『浄土真宗聖典』p1203>

 

それ  人間の浮生なる相を  つらつら観ずるに

おおよそはかなきものは  この世の始中終  まぼろしのごとくなる一期なり

 

されば  いまだ万歳の人身の受けたりということをきかず  一生過ぎやすし

いまにいたりて  たれか百年の形体をたもつべきや

われや先  人や先  今日ともしらず  明日ともしらず

おくれさきだつ人は  もとのしずくすえの露よりもしげしといえり

 

されば  朝には紅顔あって  夕には白骨となれる身なり

すでに無常の風きたりぬれば  すなわちふたつのまなこ  たちまちに閉じ  ひとつの息ながくたえぬれば

紅顔むなしく変じて  桃李のよそおいを失いぬるときは

六親眷属あつまりて  なげきかなしめども さらにその甲斐あるべからず

さてしもあるべきことならねばとて  野外におくりて

夜半の煙と  なしはてぬれば  ただ白骨のみぞのこれり

あわれというも  なかなかおろかなり(言葉では言い尽くせないほどです)

 

されば  人間のはかなきことは  老少不定のさかいなれば

たれの人も  はやく後生の一大事を心にかけて  阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて  念仏申すべきものなり

あなかしこ  あなかしこ

 

 

「朝には紅顔あって 夕には白骨となれる身なり」など、前半の名文が取り上げられることの多い「白骨章」ですが、蓮如上人の伝えたいことは最後に集約されています。

それは「後生の一大事」を心にかけて、阿弥陀さまに全ておまかせしてただ念仏申すべきである、ということに尽きます。

 

この「後生の一大事」という言葉を蓮如上人はたいへん大切にされ、お手紙のなかに繰り返し使っています。

 

後生こそ一大事なりとおもひて…(1帖10通)

後生たすけたまへとたのみ…(4帖11通他 同様の表現多数)

今度の一大事の後生たすけたまへ…(5帖14通)

 

 

「後生」とは人間としての命を終えたあとの境涯のこと。

そこで迷いを離れ、覚りの世界(浄土)に生まれることができるかどうかが一大事・最も重要なことであることを指して「後生の一大事」といいます。

死んだ後、迷いの世界(地獄や餓鬼道、畜生道など)をさまようのか、覚りを得て阿弥陀如来の極楽浄土に生まれるのか、それがはっきりしないことには安心して今を生きられない、ということから「後生の一大事」といただいたのです。

 

ここで注意したいのは、後生の一大事に「たのむ」や「たすけたまへ」という言葉がくっついていることです。

文字通り受け取ると、浄土に生まれることができるよう、「阿弥陀如来にお願いする」「阿弥陀如来に助けを請う」という意味に思えます。しかし蓮如上人は、まったく違う意味で使っているのです。

 

「たのむ」は、お願いするというより「頼りにする・まかせる」という意味です。漢字で書くと「憑」という字になります。

「あなたを必ず救う。覚りの世界・浄土に仏として生まれさせる」という阿弥陀如来の本願を信頼し、おまかせするという意味であり、こちらから要請するという意味で使われているのではありません。

蓮如上人は、「阿弥陀如来の本願にまちがいはありませんから、信頼しておまかせしなさい」と示しているのです。

 

 参照「他力本願」⇒👉 No.176の解説を見る

 

 

また「たすけたまえ」とは、「許諾(こだく)」の意味で使っています。「許諾」とは、相手の要請を受け入れるということ。ここでは「阿弥陀如来の本願を受け入れる」という意味になります。

つまり阿弥陀如来の「必ず救うぞ」という喚び声に応えて、「はい。よろしく」と素直にいただくのが「許諾」です。

 

 参照「喚ぶ;南無阿弥陀仏」⇒ No.080の解説を見る

 

 

この「たのむ」と「たすけたまへ」は、他力の信心をあらわしています。

他力の信心とは、自らの心で起こす信心(いつ壊れるかわからない)ではなく、決して壊れることのない阿弥陀如来の心をそのままいただくことを指します。

 

 参照「信心仏性」⇒👉 No.107の解説を見る

 

 

阿弥陀如来の本願におまかせし、願いをそのまま受け入れていくのが「他力の信心」、その阿弥陀如来の願いに応えて私の口から出るのがお念仏です。

だからこそ蓮如上人は、「念仏申すべきものなり」と手紙を締めくくっているのです。

 

専門的なことばが続いて、ちょっとわかりにくかったと思います。このことは、これからも繰り返し解説していきたいと思います。

 

 

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