帰命無量寿如来

 

 

 

仏教は「今」「ここに」「私」を目当てにする教えです。

今の自分の姿がどんなに受け入れがたくとも、それを見つめることからしか始まりません。

 

しかし、その受け入れがたい「今」「ここにいる」「私」をしっかりと見つめ続けたとき、救いの光のまっただなかにいることに気づくのが、お念仏のみ教えです。

 

今月は、ご存知『正信偈』のお勤めの、最初の一句についてです。

 

PDFはこちら⇒No.065

 

 

 

 

『正信偈』は帰命から始まる

 

「帰命無量寿如来」を書き下すと、「無量寿如来(むりょうじゅにょらい)に帰命(きみょう)したてまつる」となり、直訳すると「私・親鸞は、無量寿如来(阿弥陀如来)に全ておまかせいたします」という意味になります。

 

『正信偈』はこの後、

・阿弥陀如来の救いの中味

・阿弥陀如来の救いを説くお釈迦さまの教え

・それを伝えた七高僧の教え

と続いていくのですが、親鸞聖人がこうした大切な内容の前に、「全ておまかせいたします」という言葉を書かれた意味とは何でしょうか…?

 

 

受け入れがたい「私」の姿とは

 

いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。(『歎異抄』第二条)

(訳)どのような修行をしても成し遂げることのできない私のような者は、地獄こそ定まった住みかであります。

 

 

これは、親鸞聖人ご自身のお言葉です。

聖人は自らのことを、「地獄こそ定まった住みかである私」として捉えていました。

 

どれだけ心を清らかに保とうとしても、怒りやねたみの心が起こる私、それなのに、人には良く思われたいと見栄をはり、自分にさえ嘘をついて日々を過ごしている私…。

親鸞聖人は、そうした人間の持つ醜い心と正直に向き合い続けた人でした。そして、阿弥陀仏の救いにすがっていくしか道はない、と考えられたのです。

 

 

 

 

 

救われがたき者が 光のまっただ中に

『正信偈讃仰』

村上速水 著(本願寺出版社)より

 

阿弥陀仏とは、いつの世の人々も、どこの世界の人々も、一人残らず必ず救いたもう仏、という意味です。

「いつでも、どこでも、だれでも」ということになれば、「いまここにいる、この私」も、もれるものではありません。いやこの私こそ、その光のまっただ中にいるのです。

光の中にありながらその光を見る眼を失った私の上に、仏の大悲はただ一すじに注がれているのです。

 

「帰命無量寿如来」と歌われた言葉には、さんさんとふり注ぐ如来の慈光の中に、身も心もゆだねた親鸞聖人の、えもいえぬ安らかな心情がよみとられるのであります。…

それは、功利的な私心をまったく離れた、絶対随順の信であります。

 

 

 

功利的な生き方を超えて

 

私ごとになりますが、功利的なふるまいに明け暮れていた私は、60歳で亡くなった父がいなければ、まともに仏法を聞こうなどとは思わなかったでしょう。9歳で亡くなった姪がいなければ、自らの命が永遠であるかのように暮らしていたでしょう。

 

皆さんの口から「帰命無量寿如来」という言葉が出てくるようになった、そのきかっけを作ってくれた方は、誰ですか?

 

 

 

 

 

 

出典(絶版)

 『正信偈讃仰』村上速水 著(本願寺出版社)

 

 

 

 

解説;もうちょっと知りたい(お経のこと)

 

帰命

 

「帰命無量寿如来」とは、実は「南無阿弥陀仏」と同じ意味です。

「南無」を漢訳すると「帰命」となり、「阿弥陀仏」を漢訳すると「無量寿如来」となるからです。

 

したがって、「南無阿弥陀仏」とは「阿弥陀如来に全ておまかせいたします」という意味ともいえます。

 

 

以前、「南無阿弥陀仏」とは「本願招喚の勅命」であると記しました。

 

参照「本願招喚の勅命」⇒👉No.080の解説を見る

 

これは何を基にしているかというと、親鸞聖人の主著『教行信証』の行巻・六字釈にあるご文です。原文はたいへん難解なので、現代語訳も合せて見てください。

 

「南無」の言は帰命なり。「帰」の言は、至なり、また帰説(きえつ)なり、説の字は、悦(えつ)の音なり。また帰説(きさい)なり、説の字は、税(さい)の音なり。悦税(えつさい)二つの音は告なり、述なり、人の意を宣述するなり。

「命」の言は、業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。

ここをもって「帰命」は本願招喚の勅命なり。

 

(訳)「南無」という言葉は帰命ということである。

「帰」の字は至るという意味である。また、帰説(きえつ)という熟語の意味で「よりたのむ」ということである。この場合、説の字は悦(えつ)と読む。また帰説(きさい)という熟語の意味で「よりかかる」ということである。この場合、説の字は税(さい)と読む。説の字は、悦(えつ)と税(さい)との二つの読み方があるが、説といえば、告げる、述べるという意味であり、阿弥陀仏がその思し召しを述べられるということである。

「命」の字は、阿弥陀仏のはたらきという意味であり、阿弥陀仏がわたしを招き引くという意味であり、阿弥陀仏がわたしを使うという意味であり、阿弥陀仏がわたしに教え知らせるという意味であり、本願のはたらきの大いなる道という意味であり、阿弥陀仏の救いのまこと、または阿弥陀仏がわたしに知らせてくださるという信の意味であり、阿弥陀仏のおはからいという意味であり、阿弥陀仏がわたしを召してくださるという意味である。

このようなわけで、「帰命」とは、わたしを招き、喚び続けておられる如来の本願の仰せである

 

<『浄土真宗聖典』p170 原文と現代語訳>

 

 

とにかく、こと細かに文字に込められた意味を解説していますが、それほどまでに南無阿弥陀仏(帰命無量寿如来)が大切であるということがうかがえます。

それは「南無阿弥陀仏」こそ、阿弥陀如来がそのすべての徳をこめてくださった、私たちを救う種(正定業しょうじょうごう)だからです。

 

現代語訳を見ていただいたらわかると思いますが、六字釈のほとんどは、私たちを救うための阿弥陀如来のはたらきが示されています。しかし一方で「よりたのむ(漢字を充てると「憑む」となります)」「よりかかる」といった、私たちが阿弥陀如来におまかせしていく姿も示されます。

 

このように、「南無阿弥陀仏(帰命無量寿如来)」には、仏さまの「我にまかせよ必ず救う」というはたらきと、私たちの「全ておまかせいたします」という信順の姿の、両方が込められているのです。

救う側のはたらき(法)と救われる側の信(機)が「南無阿弥陀仏」の中で一体となっていることを指して、「機法一体の南無阿弥陀仏」などと言い表されてきました。

 

難しいことばですが、ここで大切なことは、私たちが「頑張って信じる」のではなく、私たちの元に阿弥陀如来のはたらきがすでに届いていることに「気づくこと・うなずくこと」です。すなわち、私たちがすでに如来の光のまっただ中にいることに気づくこと・うなずくことです。

 

参照「他力の信心」⇒👉No.107の解説を見る

 

『正信偈』の冒頭に「帰命無量寿如来」と始められたのは、「すでに届いているのだ」「まっただ中にいるのだ」という、親鸞聖人の喜びの表明でもあったのではないでしょうか。

 

 

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