よきひとの仰せ

 

 

 

PDFはこちら⇒No.199

 

 

 

親鸞聖人にとっての“よきひと”

 

親鸞聖人は生涯、師である法然聖人のことをしたい、

 

「よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」

(法然聖人のおっしゃることを信じているだけで、ほかに何かあるわけではありません)

<『歎異抄』第二条>

 

という言葉が残っています。

私たちお念仏の徒にとって、よきひとの仰せ”とは親鸞聖人の仰せであり、お釈迦様の仰せであり、阿弥陀様の仰せのことです。

 

 

 

法然聖人像(比叡山延暦寺)

 

 

「お前は死なない」の仰せ

 

『よきひとの仰せ ~歎異抄 第二条~』大峯顯 著より

 

いったいあなたは死んだらどうなると思いますかと聞かれたら、たいていの人は、無になると、消えてしまうことだと、答えるにちがいありません。死とは何か暗い所に落ちることだと考えていると思います。…

 

もちろんこれは、自分が勝手にそういうふうに決めているのです。

自分がそう決めているだけであって、阿弥陀様やお釈迦様はそんなことをおっしゃっていないんですけれども、阿弥陀様のおっしゃることよりも自分の言うことの方が正しい筈だと思って、何となくそっちの方を信じて生きているのが実状のようです。…

 

如来様は十劫の昔から、私たちに お前は死なないよ と言っておられるのです。

 

 

 

 

 

 

浄土で覚りの仏となるいのち

 

ここで「死なない」といっている意味は、今の命が永遠に続くということではなく、人としての死を迎えたあと、浄土で覚りの仏となり永遠のいのちをいただくということです。

「だから我(阿弥陀)にまかせ、お念仏申しながら歩みなさい」と阿弥陀様がおっしゃり、お釈迦様がそれを教えてくださり、親鸞聖人が私たちに勧めてくださっているのです。

 

若い頃、どんなに厳しい修行に励んでも、尊い徳を積んでも救われることのなかった親鸞聖人。逆に言えば、修行や徳を積めない者は救われない、と思い込んでいたということです。

聖人にとって、このよきひと(阿弥陀様)の仰せ(それを知らせてくださったのが法然聖人でした)は、文字通り人生がひっくり返る衝撃でした。

 

 

 

 

 

 

この世を見る態度が変わる

 

信心というのは自分の生の根底が変わってしまうことだと言えます。この世を見る態度が変わることです。

 

…今まで娑婆とは死ぬことしかないつまらない所だと思っておった。あるいは、娑婆がすべてだと思っていた。ところがそうじゃなくて、この娑婆において初めて、私はお浄土の永遠の命の中に生まれるんだということを知らせてもらった。

この娑婆の命がなかったらこの真実にあえなかったのだ。

 

そしたら、今までつまらない所だ、せいぜい生きたところであとしばらくじゃないか、何のためにわたしは生まれてきたんだろう、と思っていたこの世界こそ、実はお浄土を知らせてもらう大事な場所であったということがわかります。

これが世界が変わるということの意味です。

 

 

私たちも「経験からしてこうであるはず」と、自分だけを信じる“自分教”になっていはいないでしょうか?

繰り返し“よきひとの仰せ”を聞きながら、この苦悩多き娑婆世界を大事に歩ませていただきましょう。

 

 

 

参考文献(絶版)

 👉『よきひとの仰せ』大峯 顯(百華苑)

 

 

 

 

解説;もうちょっと知りたい(お経のこと)

 

善知識とは誰のことか

 

親鸞聖人のいう“よきひと”とは、仏教では「善知識ぜんぢしき」ともいわれます。

浄土真宗辞典で「善知識」を引くと、次のように書いてあります。

 

①悪知識に対する語。善き友。巧みな教化者。教えを説いて仏道に入らしめる者。正しい道に導く者。また仏道に入らせる縁を結ばせる者や、ともに仏道を励む者をいう。

②本願寺歴代の宗主(ご門主)を指す。

 

 

また、存覚上人(覚如上人の長男;覚如上人は本願寺第三代宗主)の記した『浄土真要鈔』には、次のように定義されています。

 

仏・菩薩のほかにも衆生のために法をきかしめんひとをば、善知識といふべしときこえたり。またまさしくみづから法を説きてきかするひとならねども、法をきかする縁となるひとをも善知識となづく。(中略)

されば善知識は諸仏・菩薩なり。諸仏・菩薩の総体は阿弥陀如来なり。その智慧をつたへ、その法をうけて、直にもあたへ、またしられんひとにみちびきて法をきかしめんは、みな善知識なるべし。

<『浄土真宗聖典』p994>

 

 

このように「善知識」とは、正しい法をお伝えくださる方のことを指しますが、一方で法は説かずとも、お念仏に出遇う縁を作ってくださった方を「善知識」と呼ぶこともできます(下線部)。

 

私事になりますが、自分(住職)にとっての「善知識」は、親鸞聖人や七高僧(龍樹菩薩・天親菩薩・曇鸞大師・道綽善師・善導大師・源信和尚・源空聖人)、そして歴代ご門主やご教化くださった先生方だけでなく、61歳の若さで亡くなった父でもあり、わずか9歳で亡くなった姪でもあります。

二人の死に会わなければ、私はとても仏法を真剣に聞こうとするような者ではありませんでした。

 

参照「わたしの善知識」⇒👉No.022 を見る

 

 

本願寺第八代宗主:蓮如上人は「領解文りょうげもん」のなかで次のように述べ、善知識のご恩を強調されています。

 

御開山聖人(親鸞聖人)御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。

<『浄土真宗聖典』p1227>

 

 

 

ところで、今年はじめにご本山(西本願寺)より👉『新しい領解文(浄土真宗のみ教え)』が発布され、今後は蓮如上人の領解文は用いず、この『新しい領解文』を用いていくように指示がありました。およそ200年以上ぶり(領解文が書かれてからは500年ぶり!)の改訂となります。

 

『新しい領解文』では、お念仏に遇うことになったご縁を次のように感謝しなさい、と示されています。

 

これもひとえに

宗祖親鸞聖人と

法灯を伝承された 歴代宗主の

尊いお導きに よるものです

 

 

「善知識」が消えています…。

 

たしかに、ご本山・歴代宗主がおられなければ、法灯が消えることなく受け継がれることはなかったでしょう。そのご恩が大きいことはわかります。

また、「若い人やこれまで仏教や浄土真宗に親しみのなかった人など、一人でも多くの方々に浄土真宗とのご縁を結んでいただきたい」という発布の願いもよく理解できます。

 

ただ、『新しい領解文』を初めて読んだとき、私の父や姪がどこかへ追いやられてしまったような気持ちになり、たいへん悲しくなりました。親鸞聖人にお念仏を伝えてくださった七高僧も消えてしまっています。

 

誰にでもそれぞれ、「わたしの善知識」と呼べる方がいらっしゃると思います。

父母、きょうだい、祖父母、つれあい、我が子、友、師…。

皆さんにはぜひ、「わたしの善知識」のご恩を、忘れないようにしていただきたいと思います。

 

参照「お念仏に救われた人々」⇒👉No.187 のあとがきを見る

 

 

実はその他にも、さまざまな先生方から「新しい領解文」への疑義をお聞きしています。

 

参照「勧学・司教有志による声明」⇒👉facebookを見る

 

 

私(住職)が特に問題だと思っているのは、次の点です。

 

・「領解文」とは「み教えに対する自身の受け止め」であるのに、それが「浄土真宗のみ教え」そのものとされていること。これによって教義とのさまざまな齟齬が出てきます。

 

・「み教え」とあるのに、努力目標が掲げられていること。これでは、「努力目標が果たされなければ救われない」ということにもなりかねません。

 たとえば『新しい領解文』には、「穏やかな顔と優しい言葉 喜びも悲しみも分かち合い」とありますが、これを「僧侶の心得」や「生活信条」とするなら理解できます(「社訓」のようなもの;特に僧侶は心がけた方が良いと思います)。しかし「み教え(=阿弥陀如来の本願)」として、救いを求めてこられた方にまでこれを押し付けてしまうと、「実現できない者は去れ」というメッセージになってしまうのではないでしょうか。

 

・「私の煩悩と仏のさとりは本来一つ」と、私にさとりの種(因)が備わっている受け止め方になっていること。親鸞聖人はご自身のことを「煩悩成就の凡夫」と表現され、「さとりの種が一つもない者だからこそ救う」という阿弥陀如来をいただいており、それこそが浄土真宗の根幹であるはずです。

さとりの側(阿弥陀如来)から見れば、たしかに「本来一つ」かもしれません。しかしここでは「私の煩悩」と表現されており、凡夫の側から見ていることが問題だと考えられます。

 

・「そのまま救う」という阿弥陀さまの本願を、私の方で「このまま」と取ってしまっていること。「煩悩とさとりは一つ」の表現と同じですが、「煩悩成就の凡夫」がどこかへ行ってしまっています。

 

*「そのまま」と「このまま」の違いについては、「何も変わらないじゃないか」と感じる方がおられるかもしれません。その違いについては、前ご門主・大谷光真様の言葉(👉『愚の力』文春新書)に感銘を受け、『今月のことば』で取り上げたことがあります。

 

参照「そのままのお救い」⇒👉No.044 を見る

 

その他 参照「そのままとこのまま」⇒👉No.185 のあとがきを見る

 

 

 

そこで真光寺では、「新しい領解文」のご唱和を、いったん保留とさせていただきます。このまま用いて良いかどうかを判断しかねているからです。

 

まだまだ浅学の身ですので、もしかしたら、私の読み間違いもあるかもしれません。しかし「あらゆるものを救う」という阿弥陀如来の本願と相いれないもの、言葉を換えれば「私は取り残されるのか」と感じる人が出るようなものであるとするなら、ご門徒の皆さんにご唱和を勧めることはできません。

 

今後、自分自身が領解文について学び直すと共に、ご門徒の皆さまの意見を広くお聞きしたうえで、判断して参りたいと思います。

 

そして何より心配しているのは、疑義を訴える声がいまだ多くあるなかで、全国の本願寺派寺院での唱和を半ば強制的に進めようとしている姿勢です。一住職として、取り入れないお寺へのペナルティまであるのではないか、と恐れています。(これも私の誤解であれば良いのですが)

 

南無阿弥陀仏

 

 

用語一覧を見る ⇒ ここをクリック