頭を下げる/頭が下がる

 

 

 

PDFはこちら⇒No.128

 

 

 

俵山の和上

 

山口県に、深川倫雄和上という方がおられました(平成24年12月ご往生)。

「勧学」という浄土真宗の最高学位を持ちながら、中央(本山)から一定の距離を置き、ひたすら親鸞聖人の説かれたみ教えを学ぶ立場を貫かれた方でした。

 

お寺がある地域の名をとって「俵山の和上」と呼ばれ、毎年多くの僧侶が研鑽を積みに全国から集まってきていました。

ご法義に対する姿勢は常に厳しく、お叱りを受けた先輩方も数多くいると聞きます。

 

私(真光寺住職)は、和上を招いた北九州での勉強会に2・3度参加したことがあるぐらいですが、後に、和上が出版された本の朗読CDを製作するご縁をいただきました。

 

その深川和上のご法話をまとめた冊子から一節。

独特の口調で語られる言葉には、高い学識がありながらそれをひけらかさず、毒舌の中にもどこか温かみがありました。

 

 

 

 

 

 

 

「世の中」よりも知るべきこと

 

『仏願の生起本末』西念寺報恩講 御満座のお説教(平成19年)より

 

あのね、お寺に参らん者とはあんまり付き合わんがいい(会場笑い)。お寺に参らん者と付き合うても何も教えてくれません。

世の中のことしか教えてくれん。

 

世の中ちゅうものは、人の評判の国であり、人間の比べあい・あの人いやらしい、そんな話ばっかり。何も教えてくれません。・・・

 

俵山には爺さんと婆さんばっかりおる。若い者は何処に行ったかというと町におる。その若い者が町におって、孫が大学を出て月給取り。

 

「あんたあ お仏壇持っとるか?」

(若い者)「お仏壇はここにある」

「ここは俵山で、あんたあ広島ちゅうたじゃないか。広島のあんた方にゃお仏壇はあるか」

(若い者)「ありません、ここにありゃ ええじゃないですか」

「そんなことがあるかい、お仏壇を持って暮らすんだ。

あんたは割合いい人間じゃ。割合いいちゅうてすまんが、なぜ割合いい人間になったかちゅうたら、あんたのお父さんお母さんがお仏壇にお仕えをしなさる後ろ姿を見たから。お父さんが頭を下げる、お母さんがお仏飯を盛る、その姿を見て育ったんだ。割合エエ子が育ったんだ。

あんたの子も女房も、あんたが御仏前に頭を下げる姿を見たことが無いんだよ。大方、あんたの子はあまり上等じゃなかろう。」

 

ちゃんと言うことにしておるんだ。

 

 

 

 

 

「自然に頭の下がるもの」に出遇う仕合せ

 

深川和上の言葉は、「仏壇を持たねばならない」という“決まり事”を押しつけているわけではありません。

私たちが人生の中で本当に出遇うべきもの、頭を下げていくべき(自然に頭が下がる)ものは何なのかを問うているのです。

考えてみれば、いわゆる「世の中」で、私たちはずいぶん無理をして頭を下げていることが多くないでしょうか?

 

親鸞聖人のご和讃(『高僧和讃』)に、

本願力にあひぬれば

むなしくすぐるひとぞなき

(阿弥陀さまの本願・お念仏に出遇った者は、

“むなしく過ぎた人生”には決してならない)

という一節があります。<『浄土真宗聖典』p580>

 

心の底から頭が下がるものに出遇えたとき、そこから本当の「むなしく過ぎない歩み」が始まります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解説;もうちょっと知りたい(お経のこと)

 

全徳施名

 

今回ご紹介した親鸞聖人の『高僧和讃』は、天親菩薩を讃えた一句です。

全文を見てみましょう。

 

本願力にあひぬれば

むなしくすぐるひとぞなき

功徳の宝海みちみちて

煩悩の濁水へだてなし

(阿弥陀さまの本願・お念仏に出遇った者は、

“むなしく過ぎた人生”には決してならない。

宝の海のように広大で深遠な如来の功徳が心身に満ちて、

濁った水のような私の煩悩も、如来の妨げになることはない。)

<『浄土真宗聖典』p580>

 

なぜ「むなしく過ぎない」のか、その理由が後半に書かれています。

 

宝の海に喩えられる阿弥陀如来の功徳が、私の心身に満ち満ちてくださるからだ、というのです。そして煩悩で濁った私の心であっても、如来にとってはまったく妨げにはならないと言われます。

それは、如来の功徳が海のように広大無辺であり、どんなに濁った川の水が流れ込んでも同じ一味(仏のさとり)に転じてくれることを、海に喩えているのです。

 

 

「功徳大宝海」とは、もともと天親菩薩が使ったことばですが、親鸞聖人はたびたびこの表現に触れ、解説されています。

 

 

『教行信証』行巻冒頭

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無礙光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。

<『浄土真宗聖典』p141>

 

 

『教行信証』行巻 正信偈

功徳大宝海に帰入すれば、かならず大会衆の数に入ることを獲。

<『浄土真宗聖典』p205>

 

 

『尊号真像銘文』

よく本願力を信楽する人は、すみやかに疾く功徳の大宝海を信ずる人のその身に満足せしむるなり。如来の功徳のきはなくひろくおほきにへだてなきことを、大海の水のへだてなくみちみてるがごとしとたとへたてまつるなり。

<『浄土真宗聖典』p652>

 

 

『一念多念文意』

功徳」と申すは名号なり。「大宝海」はよろづの善根功徳満ちきはまるを海にたとへたまふ。この功徳をよく信ずるひとのこころのうちに、すみやかに疾く満ちたりぬとしらしめんとなり。しかれば、金剛心のひとは、しらず、もとめざるに、功徳の大宝を身にみちみつがゆゑに、大宝海とたとへたるなり。

<『浄土真宗聖典』p692>

 

 

『尊号真像銘文』や『一念多念文意』では、信心をいただくことで凡夫である私の心身に如来の功徳が入り満ちてくださる、と書かれています。

繰り返しになりますが、煩悩だらけの私の心に如来の真実心が入り満ちてくださる、だから「むなしく過ぎない」のです。つまり如来の功徳によってものの見方が変わる、人生の歩みが変えしめられる、ということです。(私自身の力や精進によって変わっていくのではない点に注意しなければなりません)

 

 

ここでは特に、下線部分に注目してください。親鸞聖人が「功徳」という言葉を使うとき、それはすなわち「南無阿弥陀仏」の名号のことを指しています。

 

なぜ「南無阿弥陀仏」が「功徳」なのか?

それは、阿弥陀如来がご自身の長い長い修行によって得られた智慧と慈悲を、すべて「南無阿弥陀仏」に詰め込んでくださっているからだといわれます。

親鸞聖人の師・法然聖人の書物を見てみましょう。

 

『選択本願念仏集』

名号はこれ万徳の帰するところなり。しかればすなはち弥陀一仏のあらゆる四智・三身・十力・四無畏等の一切の内証(内に得られたさとり)の功徳、相好・光明・説法・利生等の一切の外用(外に現れたはたらき)の功徳、みなことごとく阿弥陀仏の名号のなかに摂在せり。ゆゑに名号の功徳をもっとも勝となす。

<『浄土真宗聖典・七祖編』p1207>

 

 

このように、「南無阿弥陀仏」の名号に阿弥陀如来のすべての徳がつまっていることを、「全徳施名ぜんとくせみょうといいます。

 

ただしここでも、私たちがお念仏することによって「自らに如来の徳を宿す立派な者になる」と誤解しないうよう注意していただきたいと思います。私たちはあくまで凡夫であり、親鸞聖人が『一念多念文意』でおっしゃられたように、

 

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず

<『浄土真宗聖典』p693>

 

という事実を忘れてはなりません。

 

そんな私たちに、功徳の大宝海である「南無阿弥陀仏」の名号がいたり届いていることの有り難さ。私たちの口から「南無阿弥陀仏」の念仏となってあらわれる不思議・・・。

ここで「有難い」「不思議」と表現したのは、凡夫の私たちでもお念仏に出遇うことによって、阿弥陀如来と同じさとりの世界に生まれていけることを示しているからです。

 

親鸞聖人は弟子の唯円房に向かって、よくこうおっしゃっていたそうです。

 

『歎異抄』

さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ

(思えば、阿弥陀如来が長く厳しい修行の末に得た功徳を全て「南無阿弥陀仏」に込めて届けなければ救えないほどの重い罪を背負う身の私であったのに、救おうと思い立ってくださった阿弥陀如来の本願の何ともったいないことであろうか)

<『浄土真宗聖典』p853>

 

お念仏の道とは、阿弥陀如来の功徳が届いていることを確かめながら歩む道です。迷いの凡夫からさとりの仏へ、必ず救われていく道をいま、歩んでいる。それこそが「むなしく過ぎない」人生ではないでしょうか。

 

参照「南無阿弥陀仏」⇒👉No.164 の解説を見る

 

 

最後に少し長くなりますが、故 梯實圓先生の、「真実のおこない」としてのお念仏について、力強く述べられている文章をご紹介して終わります。

 

私たちは毎日、善悪さまざまな「おこない」をしながら生きているわけですが、凡夫であることの悲しみは、いつも自己中心的な想念に支配されていて、利害、損得の打算がつきまとい、愛と憎しみの煩悩がつねにともなっています。

それゆえ悪はもちろんのこと、たとえそれが善なる行いであっても、雑毒ぞうどくの善であり、虚仮こけの行にすぎないと、親鸞聖人は言い切っていかれました。雑毒の善とは、我欲や憎しみや傲慢といった煩悩の毒が雑っているということです。虚仮の行とは、見せかけだけは立派ですが、人目をごまかしているだけの偽善にすぎない行いのことです。

それは、むしろ人生を攪乱するだけで、愛憎を超えたまことの安らぎをもたらすこともなく、生死を超えた涅槃の境地に至ることもできない「そらごと」であり、「たわごと」であるといわれるのです。

 

それにひきかえ本願の念仏は、私の口にあらわれてはいますが、本来それは私の営みではなくて、真実な阿弥陀仏の本願力が南無阿弥陀仏となって現れ出ているすがただったのです。ですから親鸞聖人は、「真実功徳(真実そのものの勝れたはたらき)とは名号である」といわれたのです。

名号は、真如の徳の顕現態(あらわれ出た姿)であると同時に、迷える衆生を念仏の行者に育て上げて、さとりの世界に迎え取ろうと願い立たれた如来の本願力(救済活動)によって、私たちの口にあらわれ、私たちを呼び覚ましている「本願招喚の勅命」だったのです。

このように称名は如来の真実功徳が私のうえで躍動しているすがたであるから、真実行といわれるのでした。

<『聖典セミナー・教行信証』教行の巻 p162>

 

参照「本願招喚の勅命」⇒👉No.080 の解説を見る

 

 

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