仏さまの道をならうということは…
「自分らしく生きる」
現代の社会では、とても大切にされている言葉です。
政治や特定の集団、あるいは他人から生き方を強制されたり、集団に馴染めなければ排除されたりすることは、断じてあってはならないことです。「自分らしさ」を守ることのできる社会を目指すことは、これからも必要でしょう。
ただ一方で、「自分らしさ」とは何かということを、いつも探しながら生きなければならないプレッシャーを感じている方も、実は多いのではないかと思います。
趣味・生きがい・SNSなど、何かをしていなければ時代に置いていかれてしまうような不安を、持ったことはないでしょうか?
なぜそれを不安やプレッシャーに感じるかというと、私たちが「自分らしさ」というものを、「どこかにある素晴らしい自分」と考えてしまっているからです。
そういう方は、ぜひ「仏教;仏さまの道」に尋ねてみてください。
☆PDFはこちら⇒No.016
「仏をさがすな」
あるお説教のなかで、「仏をさがすな。まずは、“本当の自分”に出遇いなさい。それが仏との出遇いになる。」というお話しに触れる機会がありました。
なにやら謎かけのようなこの言葉。
皆さまもよくご存じ、相田みつをさんが遺された書の中に、同じような表現がありましたので、ご紹介させていただきます。
『じぶんの花を』
相田みつを 著(文化出版局)より
『自分をならう』
他人から悪口いわれれば
おもしろくない自分だが
他人の悪口いうときは
案外平気な自分です
十二月初めの朝の寺にきて
冷える畳に坐ったら
見えた自分の心です
ああ恥ずかしことですが
これがほんとの自分です
ふだんは見えない自分のことが
坐ってみるとよく見える
「仏さまの道をならうということは
ひとごとじゃない要するに
自分をならうことですよ」
道元さまの教えです
ほんとうの自分に遇う
相田みつをさんは、曹洞宗(禅宗)の開祖・道元禅師の『正法眼蔵』という書物を、ページが破れるほど読まれていたそうです。
相田さんのいう「ほんとの自分」が見えた時、そんな恥ずかしい私にいつも寄り添ってくださる仏さま(阿弥陀如来・先に浄土に旅立たれた親しい方々)の存在に、改めて気づかされるのかもしれません。
相田さんの言葉に接していると、仏さまはきっと、一人では生きていけない私たちを次のようなお姿で見守ってくださっているのではないかと思われます。
『うん』
つらかったろうなあ
くるしかったろうなあ
うん
うん
だれにもわかって
もらえずになあ
どんなにか
つらかったろう
うん
うん
泣くにも泣けず
つらかったろう
くるしかったろう
うん
うん
あとがき;「自分らしさ」とは? 縁起の法に聞く
人生の実相をうたった詩と味わい深い文字を、数多く遺してくださった相田みつをさん。
その作品には、「仏をならった」人ならではの表現がよく見受けられます。
仏教では、「万物(すべてもの)は人間の知恵ではとらえきれないほど多くの縁が重なって、たまたま今の状態にある」と考えます。
それが、お釈迦さまの覚り(縁起の法)です。
縁起の法(真実)に照らせば、「自分らしさ」をいくら探してみたところで、そこにはたまたまの縁が重なってできあがった「自分らしさ」があるのみで、すぐに生滅変化していくものであることを知らされます。
「これこそ本来の自分だ!」と思っても、数年後・短ければ翌朝には、その思いがもろくも崩れ去ってしまっていた、という経験が誰にもあるのではないでしょうか?
そもそも、「自分らしい」と感じている時は往々にして、「自分にとって都合の良い状態である」に過ぎないことが多いものです。
仏さまに出遇うということは、仏さまの放つ光に照らされて、「本当は見たくなかった自分」に出遇っていくことでもあります。
しかしその光こそが、「自分らしさ」という殻にとらわれていた私自身を打ち破ってくれるのです。
何度でも何度でも、私は殻を作り続けてしまいます。しかし殻を作っては仏さまの光に出遇い、そこから解放されていく…。それが仏道を歩むということではないかと思います。
相田みつをさんの作品は、その文字を含めての味わいです。ぜひ原本も読んでみてください。
相田みつを『じぶんの花を』(文化出版局)をクリック
解説;もうちょっと知りたい(お経のこと)
~参照先~
無礙光如来;光の仏さま
親鸞聖人は、阿弥陀如来のことを
「無礙光(むげこう)如来」
「無量寿(むりょうじゅ)如来」
とも呼んでいます。(『教行信証・行巻』)
<『浄土真宗聖典』p141/203>
いずれも、阿弥陀如来のはたらきを示す名前で、それぞれ「限りなき光の仏さま」・「限りなき命の仏さま」という意味です。
光は、阿弥陀如来の「覚りの智慧」のはたらきを表します。
はかり知ることのできない智慧の徳で、あらゆる者を照らし、何ものにも礙(さまた)げられることなく万人を導き救う、というはたらきです。
(浄土真宗では、真実の「智慧」と人間の「知恵」を書き分けます。「智慧」と書かれていれば、それは人間のものではなく、如来・仏さまのものです。)
浄土真宗本願寺派 勧学の故・梯實圓先生は、次のように記されています。
まことの智慧は、すべての物事を固定的な実体として捉えることがありませんから、私たちに物事を一義的に限定して捉えて身動きがとれなくなるような考え方(筆者註;「自分らしさ」をかたくなに握りしめるような考え方・逆に「自分に良いところなど無い」と卑下する考え方など)を誡め、
さまざまな見方や考え方、受け取り方のあることを教えてくれます。
憎い敵のなかに如来を見、不遇の人生のなかで阿弥陀仏のお育てを感ずることができるような智慧を与えてくれます。
むなしく苦難に打ちひしがれていくだけでなく、苦難に耐える力と、苦難の意味を転換する智慧とを与えて、人びとを救っていくのが、阿弥陀仏の大悲智慧のはたらきなのです。
『聖典セミナー・教行信証 ~教行の巻~』
「そんな光、感じたことないよ!」と思うかもしれません。
私たちの眼は煩悩で濁り、自分中心のものの見方しかできません。煩悩にさえぎられた眼では智慧の光を見ることができないからこそ、阿弥陀如来から「南無阿弥陀仏」と喚びかけられているのです。
親鸞聖人はそれを「本願招喚の勅命」とおっしゃいました。
参照「南無阿弥陀仏」⇒ 👉No.164の解説を見る
参照「喚びあう」⇒👉 No.080の解説を見る
「南無阿弥陀仏」は、思いはかることのできないほど長い間、数限りない仏さまや菩薩方、そして人々(私たちのご先祖や父母・有縁の方々)を伝わって、いま私の元に届けられています。
ですから「南無阿弥陀仏」とお念仏することは、真実智慧の光が私に届いていることを、自ら味わうことでもあります。
「南無阿弥陀仏」が聞こえていることこそが、智慧の光が届いている証です。
もし「阿弥陀如来」という人格(?)をイメージしづらい方は、「縁起の法」「真実そのもの」のはたらきが、いま私に届いていると考えてみてはいかがでしょうか?
その真実の法は、動かない無味乾燥なものではなく、他者を苦悩から救い、真実に導くはたらきを持っています。
それは2500年前、真実(縁起の法)を覚ったお釈迦さまが、真実の内側にとどまることなく、あらゆる者を救おうと説法を始められたことからもうかがえます。
真実の法には、他者を真実に向かわしめるはたらきが自ずから備わっているのです。
その真実のはたらきを、「本願他力(他力本願)」といいます。
参照「他力本願」⇒👉 No.176の解説を見る
ときどき難しい用語が出てきますが、これからも折に触れて解説していきたいと思います。
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