阿弥陀さんは  どんな顔

 

 

 

仏さまのお姿は、お寺の本堂やご自宅のお仏壇の中で目にすることがあると思います。

浄土真宗本願寺派では、阿弥陀さまの立ち姿(住立空中尊(じゅうりゅうくうちゅうそん)といいます)と、六字のお名号(南無阿弥陀仏)の両方をご本尊としていただいています。

 

ただ、阿弥陀さまのはたらきは本堂やお仏壇の中だけにあるのではなく、あらゆる時と場所にあると説かれます。

人生の歩みのさまざまな場面で阿弥陀さまのはたらきを感じることができたなら…。世間が見る「幸・不幸」と関わりなく、それはとても豊かな歩みと言えるのではないでしょうか。

 

 

PDFはこちら⇒No.198

 

 

 

ある思想史家のことばから

 

故・渡辺京二さん 『肩書のない人生』(弦書房)より 

 

 

今月は、昨年末に92歳で亡くなられた思想史家の渡辺京二さんのことばから。

渡辺さんは、故・石牟礼道子さん(作家・詩人・環境活動家)の執筆活動を支え続けたことでも知られ、共に水俣病の裁判闘争に深く関わっていました。

 

自然を壊し、人間を壊し、海と共にある豊かな暮らしを壊したチッソによる有機水源汚染。

渡辺さんは、なんの落ち度もない水俣の漁師たちが、身体に取り込まれた毒によって人生を・命を奪われていく姿を目の当たりにしてきました。

 

 

 

人間の無自覚な業

 

その原因を作ったチッソは、プラスチックの原料を生産する会社でした。原因が特定されるまで、毒は何年も垂れ流し続けられました。

そしてその先には、プラスチックを使った便利な生活を享受している、多くの人々・私たちがいたのです。

 

人間の無自覚な業に絶望しながら、闘い続けた渡辺さん。

たどりついたのは、親鸞聖人が語る阿弥陀如来の救いでした。

 

 

存在を許される

 

NHK『こころの時代 小さきものの声を聞く ~思想史家  渡辺京二~』

インタビューより

 

衆生を救いたい。こう阿弥陀さんは願いなはったから、お前たちはそのまま全部助かっているよ、とこう親鸞さんは言っているわけだ。…

 

じゃあ親鸞さんの前に出てきた阿弥陀さんはどんな顔をしとったのか。どんな姿をしたったのかと思うとさ、結局この世の実在世界の形をとっとったんじゃないかね。

つまり言ってみれば山河というか、山あり川ありね。花が咲いとるし、虫もおるわけたい。風も流れとるわけたいね。そういう実在世界、それが阿弥陀さんじゃないかねぇ。

 

だからこの実在世界の中の一人の存在として、お前はそれで肯定されてんのよ、ということになるんじゃないかと思うんですね。…

救いというのは、そういう実在世界の中でほんのちょっとの間ね、滞在を許される。

 

…無数の生命の繋がりがひしめいているわけね。自分はその中の存在だっていうことで、それが本当に見えてきてね、「いいじゃないか、それで」と思うときに阿弥陀さんが出現するわけでしょう。そうじゃないかと僕は思うけどね。

 

 

 

 

 

 

狭間に気づくこと

 

「親鸞聖人の前に出てきた阿弥陀さまの顔」は、あくまで「南無阿弥陀仏」のお念仏だと、聖人自身はご書物やお手紙の中で繰り返し述べられています。ただそれを置いても、渡辺さんの「解釈」には、私たちに強く訴えかけてくるものがあります。

 

その理由は、悲惨に亡くなっていく方の人生に意味を見出そうとする懸命な思索と、「自らも水俣病を引き起こした文明社会の一員である」という苦しい自覚との狭間で生まれてきた解釈だからではないでしょうか。

 

同じ文明社会を生きる私たちも、この狭間と無縁ではいられません。

「阿弥陀さまの救いに遇う」とは、ただ楽になることでなく、この狭間に気づくことでもあるといえます。

 

 

 

参考文献

 👉『幻のえにし』渡辺京二 発言集(弦書房)

 👉『無名の人生』渡辺京二 著(文春新書)

 👉『近代の呪い』渡辺京二 著(平凡社新書)

 

 

 

 

 

あとがき

 

親鸞聖人は存命中、「帰命尽十方無礙光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」と書かれた「十字名号(じゅうじみょうごう)」を、ご本尊としていただかれていました。

何ものにもさえぎられることのない光が、あらゆる所に至り届くことを示すお名号で、阿弥陀さまのはたらきをよく表してくださっています。

親鸞聖人は、阿弥陀さまのはたらきが“自分のような罪深い者”の所にも至り届いてくださることを、とても喜ばれていたといいいます。

 

実は私たちも、「どんな時も・どんな場所でも」阿弥陀さまのはたらきを感じることができます。

それは、「南無阿弥陀仏」と我が口で称えることです。お念仏が出るということは、阿弥陀さまのはたらきが届いていることに他ならないからです。

 

 

参照「南無阿弥陀仏」⇒👉No.164 の解説を見る

参照「本願招喚の勅命」⇒👉No.80 の解説を見る

 

 

親鸞聖人が「お念仏一つ」と示されたのは、「南無阿弥陀仏」が「いつでも一緒にいるぞ」という阿弥陀さまからの、私たちへのメッセージだからなのです。

 

 

 

 

解説;もうちょっと知りたい(お経のこと)

 

慚愧と歓喜

 

『今月のことば』では「狭間に気づく」と書きましたが、具体的にはどういうことなのでしょうか? もう少し詳しく考えてみたいと思います。

 

浄土真宗本願寺派の故・梯實圓 勧学和上は、「念仏者の人生は、まさに慚愧(ざんぎ)と歓喜(かんぎ)の交錯」とおっしゃいました。「交錯」を「狭間」と置き換えても、それほど意味は違わないでしょう。

 

ここで示されているのは、「二種深信」で触れた内容と重なります。「二種深信」とは、浄土真宗の七高僧の一人、善導大師の法語です。

 

一つには、わが身は今このように罪深い迷いの凡夫であり、はかり知れない昔からいつも迷い続けて、これから後も迷いの世界を離れる手がかりがないと、ゆるぎなく深く信じる。

二つには、阿弥陀仏の誓願は衆生を摂め取ってお救いくださると、疑いなくためらうことなく阿弥陀仏の願力におまかせして、間違いなく浄土に往生すると、ゆるぎなく深く信じる。

 

<『浄土真宗聖典・七祖編』p457 の現代語訳>

 

参照「二種深信」⇒👉No.185の解説を見る

 

ここでは、前半が自身の罪悪を知らされる「慚愧」、後半が救われていく喜び「歓喜」にあたります。

 

以前の解説にも書きましたが、阿弥陀さまの救いを私たち凡夫が味わうとき、常に「私のいたらなさ」「仏のまちがいなさ」が表裏一体のものとしてあることを示すのが、「二種深信」であり「慚愧と歓喜」です。

それは「喜び」の裏に「悲しみ」があり、「嘆き」の裏に「安心」があるという一見矛盾するようで、とても人間らしい心を言い当ててくださっていることばでもあります。

 

 

では、親鸞聖人がこの言葉をどうお示しになっているかというと、『教行信証・信巻』に『涅槃経』の文を引いておられます。

ギバという名医が、父殺しの罪を犯したアジャセという王に、釈尊の説法を聞くよう勧める場面での言葉です。

 

慚とは自分が二度と罪をつくらないことであり、愧とは人に罪をつくらせないことです。また慚とは心に自らの罪を恥じることであり、愧とは人に自らの罪を告白して恥じることです。また慚とは人に対して恥じることであり、愧とは天に対して恥じることです。

これを慚愧といいます。慚愧のないものは人とは呼ばず、畜生と呼びます。

 

<『浄土真宗聖典』p275 の現代語訳>

 

 

さらに、聖人は自己を次のように深く見つめています。

(『正像末和讃』より)

 

無慚無愧のこの身にて

まことのこころはなけれども

弥陀の回向の御名なれば

功徳は十方にみちたまふ

 

<『浄土真宗聖典』p617>

 

 

前半は“慚愧の心さえない”という「慚愧」であり、後半はそんな自分に「南無阿弥陀仏(弥陀回向の御名)」が届いていることを喜ぶ「歓喜」です。

 

親鸞聖人のことばには、こうした表現が数多く見られます。

字面だけ追うと、「そこまで卑下しなくても」と感じる方がいるかもしれません。しかしそれは、決して自己を卑下するためのものではなく、人間が抱える業(煩悩・自己中心の心)を見つめ続けた結果であり、さらには、その人間が救われていくことへの驚きと喜びを、自らの身を通して伝えてくださっているのです。

 

私はここに、「苦悩を抱える多くの人が南無阿弥陀仏に出遇い、救われていって欲しい」という聖人の切なる願いを感じます。

 

 

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