真宗のコンプレックス

 

 

 

 

PDFはこちら⇒No.202

 

 

 

「新しい領解文」について

 

今年一月に発布された「新しい領解文」。

その内容や成立過程に疑義を申し立てる学者の方々が記者会見を開き、各種新聞に取り上げられるなど、大きな騒動に発展しています。

 

真光寺でも4月の「今月のことば」で取り上げましたが、住職は「反対」の立場です。「執われの心を 離れます」「むさぼり いかりに 流されず」といった道徳観が、まるで救いの条件のように述べられているのが一つの理由です。

 

 

参照「新旧領解文 対照」⇒👉No.200 を見る

参照「新領解文の問題点」⇒👉No.199の解説(後半) を見る

 

 

どうしてこのような文書が発布されたのか…?

そこには「救いは本願念仏一つ」と謳う真宗の者が持つ、“コンプレックス”が背景にあるのではないかと思います。

 

大谷大学学長を務めた故・廣瀬杲先生のことばから考えていきます。

 

 

 

宗教者が陥るあやまり

 

『歎異抄講話 4』廣瀬杲 著(法蔵館)より

 

宗教を倫理的な、道徳的な関心の中へ取り込んでいくと、かならず誤るのです。…

 

往生浄土の道といっても、やはり仏道だ。仏道であるかぎり大乗菩薩道(住職註;世のため人のため、生きとし生けるものを救うためにはたらく道)でなくてはいけない。

大乗菩薩道でなくてはいけないということになりますと、親鸞聖人の教えも大乗菩薩道だということをなんとか言わなくてはいけない、という意識が起こってくるのです。

 

もしそういう思いが私たちの中にあるといたしますと、それはコンプレックスだと思います。

…もっとはっきりとした言葉にしていかないと、親鸞聖人の教えが現代人の中で疎外されていくのではないだろうかという不安感があるのです。

 

 

…あの人はまじめだ、あるいは私もまじめに生きていると言ったとき、案外そのまじめという根っこがなんであるかと尋ねてみると、ときによると高慢心であるかもしれません。

「自分はまじめに生きている」とひとこと言ったときに、「ほかの人は不まじめだ」という言葉がつい出てきますから、それはひょっとするとどころではなく、はっきり高慢な心が根本にあるのです。

 

…もっときついことを申しますと、功利心です。自分が得するという心が根っこにあって、まじめという生活表現になっているということがあるわけです。

 

 

 

 

 

 

「役に立つ」ことへの誘惑

 

「役に立つか立たないか」「倫理的に正しいか否か」で評価が決まってしまう現代社会において、「浄土真宗も社会の役に立っています・誠実にやっています」と表明したくなる本山(本願寺)の方々の気持ちは理解できます。

しかし、たとえ菩薩道を生たいという願いを持っていても、その通りに生きられない、それを24時間・ひとときも忘れず実践することなどできないのが、私たちの命です。

 

親鸞聖人は、そうした人間のありさまを「煩悩具足の凡夫」と言われました。

 

煩悩しかないのが人間(私)です。

「願いを叶えたい、もっと好きなことをやっていたい、病気にはかかりたくない、穏やかな心で暮らしていきたい、大切な家族を守りたい…。」自分勝手と思いながらも、正直なところ、私(住職自身)からそれを取ったらあとは何も残りません。

しかし逆に言えば、煩悩具足でしか生きられない私の命であるからこそ、阿弥陀様のお救いに遇うことができるのだと、親鸞聖人は示してくださったのです。

 

 

 

参考文献

 👉『歎異抄講話 4』廣瀬杲 著(法蔵館)

 

 

 

 

 

 

長い あとがき(あくまで私見です)

 

人は、道徳的に正しい・立派なこと(優しい心・穏やかな笑顔・他者への思いやり…)を口にする方が気持ち良いものです。カッコも良いです。宗教教団がそれを発信すれば、社会(=現代の人々)からの要望にも応えることになります。

一見、良いことずくめのように見えますが、浄土真宗ではあまり積極的にはしてきませんでした。何故でしょうか?

 

それは、ブレーキをかける方々がいたからです。

 

浄土真宗のご法義は聞けば聞くほど、阿弥陀様に救われる確かさを知ることができる一方で、阿弥陀様によってしか救われることのない我が身の愚かさを思い知らされます。

 

参照「二種深信」⇒👉No.185の解説を見る

 

つまり、カッコ良い私の姿など何処にもないことを聞いていくのです。

 

誰しもどこかで、カッコ良い部分も持っていると思いたいものです。しかし真宗には、カッコ良いことを言いたくても我慢する「融通の利かない方々」が、ことばを変えれば、ご法義を深く学びそれを守ろうとしてきた先達が連綿として存在してきました。

この方々がある意味ブレーキ役となって、カッコ良いことはあまり言えないけれど、ご法義の根幹が守られ・受け継がれてきたと言って良いと思います。

 

 

一方教団の中には、社会対応に長けた方々も数多くおられます。

変化の激しい現代社会。時代の流れを読み、それに即応するフットワークを持っている方々は、真宗の良さを大いにアピールしていくべきだと、私も思います。

しかし注意しなければならないのは、アピールすることに重きを置きすぎると、その場で「ウケの良い」言葉ばかりを連ねてしまい、結果的に本来の真宗とはかけ離れたことを口にしてしまうことです。それが行き過ぎると、自分の発した「ウケの良い」言葉こそが真宗である、と思い込んでしまうようになります。

 

私自身が同様の弱さ(カッコつけたい)を持っているからこそ、そこに至る過程や危うさがよくわかります。

 

 

<閑話休題>

私(住職)はどちらかというと、「社会の要望に応える」ことの方が得意な方だと思います。

 

親鸞聖人750回大遠忌の際は、聖人のご生涯をたどるDVDを製作・頒布したり、九州地区法要のためのVTR製作に携わったりしました。そしてそれがとても楽しい時間でした。

そのときも「融通の効かない」先輩方に、「真宗のご法義ではそこまで言えない」とブレーキをかけられることがあり、「面倒くさいなぁ」と思っていました(申し訳ありません)。

ただ、少なくとも映像作品において言えるのは、その「面倒くさい」ことを経ないと本当に良いものは生まれない、ということです。自分の考えた通りに作り上げたものは、たいてい、一人よがりの小さくまとまったものにしかなりません。

DVD製作では、故・深川倫雄和上の薫陶を受けた大先輩方にシナリオ段階からご相談し、何度も試写をしていただきました。その結果、当初考えていたよりも抑制した表現にならざるを得なかった部分もいくつかあります。

その作業は「面倒くさかった」けれど、ご法義として「間違っていない」という自信を持って製作することができました。結果、全国の寺院・ご門徒方からのリクエストをいただき、一万枚を超えるDVDをお届けすることになりました。

 

 

少々乱暴な分け方ですが、教団には地道に聖教に向きあう方々と、社会に即応して動く方々がいます。

両者は車の両輪のようなものであり、どちらが欠けても偏った組織になると思います。一方だけが主導権を握っても、組織としての未来は暗いものになるでしょう。

お互いの存在を必要なものとして尊重し合い、語り合うことがない限り、現在の「領解文」の問題は解決しないと私は考えます。

 

ただ、どうしても一方を取らねばならない時があるならば…。

その時は、組織の繁昌よりもご法義の根幹を守ることが優先されるべきであることは、自明の理だと思います。

 

 

 

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