聴聞にきわまる

 

 

 

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下校する小学生の姿

 

ある日の夕刻。車でお参りに向かう交差点の信号待ちで、二人組の男の子が下校している姿を目にしました。二人の帰り道はそこで分かれるらしく、「バイバーイ」と手を振っています。

 

すると、片方の子だけはその場を動かず、ランドセルが揺れるほど一生懸命に手を振りながら、友達が見えなくなるまで「バイバイ」を続けていました。

私は、「明日も学校で会えるはずなのになぁ」と不思議に思いながら通り過ぎましたが、後でその子の姿が「諸行無常しょぎょうむじょうという、お釈迦さまの大切な教えそのもののような気がしてきました。

 

 

 

 

 

 

「あなたの思い違いです」

 

「諸行無常」という教えは、「あらゆるものごとは移り変わる」という意味だけでなく、「明日もあなたの命があるだろうと当然のことのように考えているなら、それはあなたの思い違いです」という、厳しい内容を含んでいます。

私が「明日会えるじゃないか」と考えるのは、大人の知恵を備えているからです。しかし、その子は“大人の知恵”による未来の予測ではなく、今の別れを“身体全体で・素直に”味わっていました。

 

大人の知恵(人間の知恵)がつけばつくほど、仏さまの智慧(真実の智慧)を見えづらくしてしまうことがあります。だからこそ、私たちは仏法を聞き続けなければならないのです。

 

本願寺第8代宗主・蓮如上人は、それを「仏法は聴聞にきわまる」とおっしゃいました。

 

 

 

 

 

聴聞にきわまる

聖典セミナー『蓮如上人御一代記聞書』藤澤量正 著より

 

思えば、如来の慈悲は、頑迷にして固陋 (頑固で見聞がせまいこと)、無智にして怠惰な私たちに、倦むことなく (あきらめることなく) 常に喚びつづけ、この私の目覚めを絶えず促しておられるのでありました。…

 

少なくとも信の扉は、私の方から開けるべきものではなく、如来によってすでに開かれてあった ことを聞きわけることが大切なことでありました。

聴いて救われるのではなくて、救われるべ きは私であったと聞くことの大切さを心得べきなのです。

 

いかに愚かな所作をくり返す私たちであっても、すでに如来に喚ばれ、如来に照らされ、 如来の御手の中にあったと知る人生は、まことに大らかであり、いつも明るいものであるということ でありましょう。 

 

 

 

 

 

浄土真宗は、「救われがたき私」が阿弥陀如来のはたらきによって「必ず救われていく」ことを聴いていく教えです。

どうか“大人の知恵”にとらわれず、“素直な”気持ちで、阿弥陀さまの智慧と慈悲とに耳を傾けてみてください。

 

 

 

 

 

 

 

解説;もうちょっと知りたい(お経のこと)

 

聞即信

 

「聴聞」について、もう少し詳しく見ていきましょう。

 

「聞」とは「信心」である

宗祖・親鸞聖人が『教行信証』の信巻で、次のように述べられた一節があります。

 

しかるに『経(大無量寿経)』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし。これを聞といふなり。

(ところで『大無量寿経』の第十八願成就文「聞」と説かれているのは、わたしたち衆生が、仏願の生起本末を聞いて、疑いの心がないのを聞というのである。

<『浄土真宗聖典』p251> 

 

第十八願成就文(「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転 唯除五逆 誹謗正法」)…すべての人々は、その仏の名号(南無阿弥陀仏)のいわれを聞いて信じ喜ぶ心がおこるとき、それは無量寿仏がまことの心をもってお与えになったものであるから、無量寿仏の国に生まれたいと願うたちどころに往生する身に定まり、不退転の位に至るのである。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれる。

 

仏願の生起本末…阿弥陀仏が衆生救済の願を起こされた由来と、その願を成就して、現に私たちを救済しつつあること。すなわち名号(南無阿弥陀仏)のいわれのこと。

 

 

難しい文章ですが、言わんとするところは「疑心あることなし(無疑心)」とあるように、名号(南無阿弥陀仏)のいわれを聞くことがそのまま信心となる、ということです。

 

同じく親鸞聖人の著作『一念多念文意』には、さらにはっきりと「聞=信心」について書かれています。(これを「聞即信」と表します)

 

きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。

(聞くというのは、如来の本願を聞いて、疑う心がないのを「聞」というのである。また聞くというのは、信心をお示しになる言葉である。)

<『浄土真宗聖典』p678> 

 

 

何を聞く?

『教行信証』には「仏願の生起本末を聞く」とあります。

「生起本末」とは、阿弥陀仏がなぜ本願を起こされたのかを「生起」、そして今、それがどうはたらいているのかを「本末」と表した言葉です。

 

仏願の「生起」について、『教行信証』信巻に次のような一節があります。

 

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。

(すべての衆生は、はかり知れない昔から今日この時にいたるまで、煩悩に汚れて清らかな心がなく、偽りへつらうばかりでまことの心がない。

<『浄土真宗聖典』p231> 

 

阿弥陀如来が「あらゆる者を必ず救う」という本願を起こされた理由は、この世界の生きとし生けるものすべて、煩悩に汚れるばかりで自らの力で迷いの境界から抜け出るすべを持たないからである、というのです。

もちろん、その中で迷っている者の一人がこの私であり、どんなに努力を積んでも覚りには一歩も近づけない生き方をしています。

逆に言えば、迷っている私・苦悩する私がいなければ、阿弥陀如来が本願を起こされることはなかったということです。つまり「私のための願いであった」ことを聞いていくのです。

 

次に「本末」ですが、やはり『教行信証』信巻に、

 

ここをもって如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもって、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。

(そこで阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、はかり知ることができない長い時間を使って菩薩の行を修められた。そのとき、身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間でも清らかでなかったことがなく、まことの心でなかったことがない。如来は、この清らかなまことの心をもって、すべての功徳が一つに融けあい、思いはかることも、讃えつくすことも、説きつくすこともできない、この上ない智慧と慈悲の徳・南無阿弥陀仏を成就されたのである。)

<『浄土真宗聖典』p231> 

 

とあります。

ここで「至徳」と言われているものは、現代語訳にもあるように「この上ない智慧と慈悲の徳」であり、それこそが南無阿弥陀仏(名号)です。

 

「南無阿弥陀仏(名号)」については、『教行信証』行巻に詳細な解説があり、次のような一文があります。

 

「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。

(「即」の字は、本願のはたらきのいわれを聞くことによって、真実報土に往生できる因が定まるまさにその時、ということを明らかに示されたものである。)

<『浄土真宗聖典』p170> 

 

「願力」という言葉が、「本願のはたらきのいわれ」(=「名号のいわれ」=「仏願の生起本末」)と同じ意味で用いられています。これは南無阿弥陀仏の名号が、単なる記号や呪文のたぐいではなく、阿弥陀如来のはたらき(力)そのものであることを示しています。

 

つまり阿弥陀如来が私たちを救う力・はたらきは、南無阿弥陀仏の名号となって私たちのもとに届いているのです。

これが仏願の「本末」であり、それを聞いていくことがすなわち、阿弥陀如来のはたらきをいただいていくことに他なりません。

 

参照「全徳施名」⇒👉No.128 の解説を見る

 

 

「聴く」と「聞く」

「聴聞」は、「聴く」と「聞く」という同種のことばが重なった熟語です。その違いについて見ていきましょう。

 

一般的な考えからすると、「聞くことが信心」と言われれば、まず「私が聞く」→次に「私が信じるようになる」という流れが頭に浮かびます。

しかしここでいう「聞がそのまま信心となる(聞即信)」という時の「聞」は、「聞こえてくる」と解釈した方が良いでしょう。

 

繰り返しになりますが、「南無阿弥陀仏」には阿弥陀如来の広大な智慧と慈悲がそのまま詰まっています。しかしそれを「私が称える(念仏する)ことによって救われる」と受け取ると、間違いになってしまいます。

仏願の「生起」を思い出していただきたいのですが、迷いから抜け出す力などかけらも持たない私だからこそ、如来の本願が建てられたのです。「私が称える」ことに何かしらの神秘的な力が宿るような捉え方は、仏願の「生起」を聞き損じていることになります。

 

如来のはたらきによってしか救われない私に、「南無阿弥陀仏」と呼びかけてくださっている。だからこそ、「聞こえてくる」のです。

 

参照「本願招喚の勅命」⇒👉No.080 の解説を見る

 

一方、「聴」はどうなるのか?

南無阿弥陀仏のいわれは、まず「聴かなければ(耳を傾けなければ)」知ることができません。それは、善知識(仏法のご縁を結んでくださる方々)の言葉に耳を傾けることで、初めて出遇うことができるものです。

 

参照「善知識」⇒👉No.199 の解説を見る

 

そして聴けば聴くほど、「聴く」という私の行為によって救われるのではなく、「聞こえてくる」南無阿弥陀仏のはたらきによって救われていくことがわかります。

 

江戸時代に「妙好人」と呼ばれた山口県・六連島のお軽という女性の詩があります。

 

 弥陀のお慈悲をきいてみりゃ
 きくより先のお助けよ
 きくに用事はさらにない
 用事なければきくばかり

 

どれが「聞く」でどれが「聴く」なのか…。解釈は一通りではないと思いますが、二つの「きく」を意識しながら読むと、さらに味わい深くなります。

聞こえてくることこそが、救われていくこと(“お助け”)の確かさであり、それがそのまま信心となっていくのです。

 

 

まとめ

「聞即信」とは、聞と信の間に私の力(世間的な知恵や知識・努力や善行)を一切介在させないことを示しています。すなわち「他力の信心」を表しているのです。

 

参照「他力の信心」⇒👉No.107 の解説を見る

 

「聴聞にきわまる」と言われた蓮如上人のおこころは、「聴くことが大事」ということだけを示しているのではありません。聞こえてくる如来の救いをそのままいただく「他力の信心」こそが肝要であることまでをも、見通したお言葉だったのです。

 

 

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